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    • 2020.06.02 Tuesday
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    ミリ :: キャラクターストーリー

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      時は神話の時代、まだ女神の影が降りていない頃…。
      東の大陸の中心には巨大な峰を誇る山々が連なり、その中でも最も高い山は霊山ドリウスと呼ばれていた。
      このドリウスには巨大な神殿があった。
      荒々しい山脈と濃い霧の中にあった神殿はまるでその存在を隠したがっているようだったが、逆にドリウス周辺の空にはとても目立つ者たちが風を切って羽ばたいていた。
      巨大な翼と長い尾、鎧をまとったように艶のある肌をしたドラゴンだ。

      霊山ドリウスの神殿は、そのドラゴンを神としてあがめるための場所であり、神殿のあちこちにはドラゴンを象った彫刻や装飾物が並んでいた。
      神殿の祭壇の前で銀髪の女性が小さな包みを抱きしめて静かにうつむいている。
      女性の顔はまるで凍りついたかのように蒼白だったが、口元には慈愛に満ちた微笑みがかすかに浮かんでいた。

      “もう間もなく、時が来ますね。”

      女性は聞く者のいない祭壇の前で、独り言のようにつぶやいた。
      すると、彼女の言葉に反応したかのように、神殿の祭壇が青みがかった光を放った。
      祭壇に置かれた三日月形の遺物が一瞬光ったらしい。
      彼女の表情がゆっくりと曇っていく。悲しみに満ちた瞳が、胸に抱く小さな包みに向けられた。

      “大変な頼み事ばかりたくさん残してしまいますね。”

      女性が抱いている包みの中で、生まれたばかりの女の赤ん坊が眠っていた。
      彼女の言葉に同意でもするように、祭壇の遺物がまた光を放つ。
      赤ん坊の頬にも青い光が差した。

      歴史の時代が到来する前、世界にはドラゴンを神と崇めるドラゴン信仰が存在した。
      ドラゴンと意思疎通のできる‘巫女’を中心に、一時根深い信仰を誇っていたドラゴン信仰は、全大陸に渡って数多くの神廟や神殿を遺した。
      しかし、ドラゴンと人間の唯一の接点であった巫女が人間の手にかかって命を落とし、それをきっかけにドラゴンと人間、その二つの存在の関係は次第に薄くなり、ついには人間の歴史からドラゴンは姿を消していった。
      ドラゴン信仰は力を失い、王国の復興とともに衰退し、消え去った。
      歴史の時代の初期には最後まで巫女の存在を記憶し、ドラゴン信仰を守った人々がいたとされているが、彼らも戦争の時代を迎えた後には姿を消し、王国と女神という絶対権力の中に吸収されてしまった。
      その記憶を持つ者たちは次第にいなくなり…。
      長い月日が流れた。

      “姉ちゃんは、変だよ。”

      マルがミリを見て言った。
      ミリは、何を言っているの?と尋ねるような表情で見つめている。
      だが、なぜかマルと目を合わせることはできなかった。

      “何が?”
      “よく分かんないけどさ…、何か変なんだよ。”

      かくれんぼの後から、マルは何かが気に入らない様子だった。
      いくら上手に隠れても、びっくりするほど簡単に見つかってしまう。
      マルは姉をにらんだ。
      ミリがまたその視線を避ける。
      マルには姉の態度が怪しくてたまらなかった。

      “そういえば、夕食のメニューはマルの好きな焼きタティクみたいよ?早く行かないとなくなっちゃう。”

      ミリが夕食のメニューに話題を変えながら足を急がせた。
      一人足早に先へ進むと、マルは一緒に行こうとつっけんどんに言ってついて来た。
      ミリはそんな弟を見て、かわいくて仕方がないという風に笑った。
      マルが近寄ってミリの手を握る。
      二人は何事も無かったかのように、また仲良く歩き始めた。

      マルの表情を窺っていたミリは、こっそり安堵の息をついた。
      もし気づかれたらと思うと、気が気でなかった。
      もしもマルにあのことを知られたら、もう二度とかくれんぼはできなくなるかもしれない。

      かくれんぼが始まって、ミリが鬼になった時だった。
      マルが隠れたのを確認した彼女は、まず周りの草や土、そして折れた木の枝を触り始めた。
      草からは青。
      彼女は森の道に沿って楽しそうに駆けていくマルの気分を感じることができた。
      折れた木の枝は朱色。
      倒れた木の柱を乗り越える楽しさ、丘の上にある神廟に向かって走る時の爽快さが続く。
      最後に、神廟のすべすべした木の柱は紫。
      神廟の内側に身を隠して彼女を待つマルの、胸の高鳴りを感じた。
      ミリは物に触れると、説明しがたい独特な感情と感覚を感じることができる。
      物に触れると特定の色が思い浮かび、その色から触れた物の過去がぼんやりと見えた。
      過去の出来事の細かい流れまでは分からなかったが、幸せなことは明るい色で、悲しいことは暗い色で感じるのだ。
      一見何の役にも立ちそうにない能力だったが、かくれんぼにはピッタリだった。
      マルがどこかに隠れたら、彼女は適当にあちこち探し回るふりをしてから隠れている場所に行けばいい。
      ただ、今日はあんまり簡単に見つけてしまったせいで、マルに疑われてしまったようだった。

      “明日もここに来ようよ、姉ちゃん。”

      マルがミリを見上げて言った。
      ミリはすぐには答えず、神廟を見回しながら考えるふりをして、しばらく目を閉じた。

      “明日はちょっと無理かも。”
      “なんで?”

      明日は灰色だから…と答えかけて、ミリは口を閉ざした。

      “明日は何となく……ダメみたい。”

      ミリが口ごもるように言うと、マルが顔をしかめた。
      触れた物の過去を感じられるだけでなく、ミリには近い未来を予測する能力があった。
      それは一種の予知能力だったが、占星魔法で未来を透視する能力とは違う。
      彼女が未来について知ることができるのは、やはり色だけだった。
      ミリの頭の中の複雑に混じりあった色が、未来に関するぼんやりした感覚を伝えてくる。
      だが、それだけでは明日何が起こるかを予測するのは不可能だった。
      唯一役に立つのは、他の人よりも天気を予想しやすいという点だろう。
      曇る日は暗い色、晴れる日は明るい色が見えたから。

      ミリに見えた明日の色は灰色だった。
      彼女が灰色を見た翌日は必ず雨が降る。
      ミリは雨の日が嫌いだった。
      彼女が落ち込んだような表情を作ると、その様子を見ていたマルがため息をつきながら首を振った。

      “やっぱり、姉ちゃんは変だ。”

       

       

       

      ミリとマルは神廟を離れ、丘の道に沿って村へ続く階段をゆっくりと降りた。
      丘の下には四方を城壁に囲まれた城郭都市、ソランの風景が広がる。
      空を飛ぶ鳥をも阻む高い城壁と、人々の忙しそうな足音、白い煙に満ちたここはソランという本来の地名よりも‘炎の街’という名で知られていた。
      ソランは王国で最も多くの火薬製作所とランプ製作所がある場所だ。
      昼には火薬製作所の火花が散り、夜にはランプが街を彩った。

      ミリとマルが家に向かっている途中、街の家々に明かりがともり始めた。
      二人は丘を下って神廟の入り口付近にある自宅へ入る。
      門を通ると広い庭と伝統的な様式の東方住宅が姿を現した。
      巨大な木の柱を組んだ木造の建物の上に、三角形の瓦屋根が長く伸びている。

      "別棟のおじさんだ! "

      中庭を通って母屋に向かっていたマルが叫んだ。
      庭の中央で一人の男が、まるで祈りを捧げているかのように跪いていた。
      彼は先日から西の別棟に寝泊まりしている客人だった。
      背は高く、鬼のような人相。
      彼の膝の下には、男の背の高さと同じくらい大きな大剣が一振り置かれていた。

      "触ってもいい? "

      ミリが止める隙も無く、マルが男に声をかけた。
      男はマルを見るとうなずいて剣の柄を差し出した。
      マルが明るく笑って柄を握った。大剣を振ってみたかったのか、マルが細い腕で剣を持ち上げようと歯を食いしばる。
      しかし、どれだけ力を入れても大剣は持ち上がりもしなかった。
      その姿を見て男が笑った。
      そして立ち上がり、マルが剣の重さを感じられるように、大剣を軽く手に握らせた。
      男の手を借りながら大剣を左右に振ると、マルの瞳がキラキラと輝いた。
      ミリはその様子を心配げな表情で見守っていた。

      ミリは両親が男を家に連れて来た日を思い浮かべた。
      南の城門の前に倒れていた男を家に連れてきたのは、父だった。
      全身が傷だらけの男は何日も食べていないのか、やつれて見えた。
      他の街からひたすら歩いてきたようだ。
      ミリの両親は男を別棟に移して薬と食料を与えた。
      男は傭兵として何年も各地を転々とし、気をしずめるためにソランへ来たと話した。
      両親はいくらでも休んでいけと男を励ました。

      ミリは両親が何の疑いもなく男を受け入れたことが不安だった。
      男の身元をもっと正確に知りたい。
      彼女は両親に気づかれぬよう、倉庫に保管された男の大剣を探した。

      指が大剣に触れた。
      赤黒い色だった。
      ミリは背筋に寒気を感じ、慌てて手を放した。
      彼女の指先がチリチリと痛む。
      今も憎悪と怒り、苦痛、そして絶望が感じられる気がした。
      物の記憶がこれほど鋭く、苦しいのは初めてだった。

      ミリはマルと遊ぶ男を疑いに満ちた目で見つめた。
      男はぶっきらぼうなその表情とは違い、マルが喜びそうな遊びをしながらマルの明るい笑顔を引き出していた。
      そんな姿を見ると悪い人ではないのかもしれないと思いながらも、ミリは大剣が見せた暗い記憶を忘れることができなかった。

      彼女の瞳に映ったそれは、奇怪な形の武器だった。
      その武器は手で握る柄を中心に左右に伸びており、両端がまるで馬上競技で使う槍のように長く、鋭かった。
      それだけを見ると、単に敵を突くための武器のようにも見える。
      だが、それだけではなかった。
      武器には左右の槍先から半円を描く巨大な刀が鋭い歯を光らせている。
      武器はそれ自体で敵を斬り捨てる一つの巨大な刃のようだった。

      ミリは得体の知れない恐ろしさを感じた。
      この空間から逃げ出したかった。
      しかし、彼女の意志に反して、彼女の脚は武器に向かってゆっくりと進んでいった。
      武器の柄からは一本の鎖が長く垂れている。
      鎖の先がまるで蛇のように頭を上げて彼女を見つめた。
      ミリの心臓が恐れでドクドクと弾む。
      だが、彼女はすでに手を武器に向けてゆっくりと伸ばしていた。

      "!"

      その瞬間、鎖が瞬く間に伸びて来て、ミリの手首に巻き付いた。
      驚いたミリが鎖から手を抜こうと必死にもがく。
      しかし、無駄だった。

      ‘使命。’

      彼女の指先が真っ黒に染まり始めた。
      指先から、黒い気がまるで全身を鱗のように覆っていく。

      ‘ドラゴンナイトの使命。’

      抵抗する間もなく、あっという間に黒い気が彼女の全身を包み込んだ。

      “ダメ!"

      夢から目覚めた時、全身が冷や汗でびっしょりと濡れていた。
      あまりにも生々しい夢だった。
      何が現実なのか、分からなくなりそうだった。
      気のせいか、鎖に巻き付かれた手首が痛む。
      眠る前に男が持っていた大剣を見て不安になったせいだろうか。
      ミリは最近、物の記憶を読む行為に恐れを感じ始めていた。
      暗い感情に触れるのは、精神的にもつらいことだった。
      ミリは今後、武器にはできる限り手を触れないようにしようと心に決めた。

      窓の外から日の光が差し込んでいる。
      雨が降るだろうという機能の予想に反して、空は雲一つないほどに晴れていた。
      灰色の晴れた日。
      ミリはいつもと変わらない温かい日差しを受けながら、得体のしれない不安を感じていた。

      その日、西の別棟の男は、一言の挨拶もなく邸宅を去った。
      倉庫には男の大剣がそのまま残されていた。

       

       

       

      ミリは自分を普通だと思っていた。
      世の中には自分よりも優れた能力を持つ人たちがたくさんいる。
      例えば彼女が好きな伝説の中の魔術師、吟遊詩人や演奏者のように世の中には長く語り継がれる特別な人たちがいた。
      それに比べて、ミリは少々人とは違った能力を持っただけの普通の女の子。

      そう思っていた。

      "火花が飛ばないように、気を付けて混ぜなさい。"

      マルが父に習いながら火薬を作っていた。
      火薬製造家である父は、なぜかマルにだけ火薬の製造法を教える。
      マルも火を扱うのが楽しいのか、父の言うことをよく聞きながら一緒に火薬を作った。
      ミリはそんな二人の姿を近くから見守っていた。

      マルが黒い鉄釜の中に火薬の原料を入れ、ぐいぐいとかき混ぜた。
      鉄釜のおかげで火花が散ってもケガをする心配はないが、貴重な材料を無駄にしてしまうかもしれない。
      マルは真剣な表情で材料を混ぜ、火薬を慎重に袋に移した。

      父がマルの火薬を一握り取り出すと、火をつけて性能を試した。
      ボウッと音を立て、マルの火薬が一瞬で燃え上がった。父が満足げにうなずく。

      ミリはふと、あの赤黒い火薬の炎の中に、何か入っていると思った。
      炎は武器だった。
      王国は常により強い武器を求めていた。
      ソランで作られた火薬は王国軍に供給され、爆弾や爆薬、銃砲を作るのに使われた。
      一見のどかに見えるこのソランとは違って、外の世界では魔族討伐の名のもとに何度も遠征が繰り返されていた。

      戦争という言葉には、いつも死の知らせが付き添っていた。
      勝利の喚声すら誰かの犠牲の上に置かれた飾りに過ぎないのだ。
      もしかしたら、マルの小さな手にも武器が握られる日が来るのかもしれない。
      ミリは今からその瞬間が怖かった。
      平凡な自分の能力で今の幸せを守れる自信が無かった。

      "どうしたの? "

      誰かがミリの手を握った。
      マルだった。
      顔と手を煤まみれにして、意気揚々とした表情で彼女を見つめていた。

      "今日はもうやめる。他のことして遊ぼうよ。"

      マルが彼女の手を引いた。
      まるで彼女の考えを読んで、心配するなと慰めるかのように。
      ミリはマルを頼もしく思った。
      彼女はそんな弟の顔を見つめて笑った。
      そして、この幸せをいつまでも守りたいと思った。

      -

      夜だった。
      誰かが彼女の名を呼んでいる。
      それは、心の中に直接響く声だった。
      どこか温かく、懐かしい声。
      ミリは声に導かれて家を出、神廟へ向かう階段を上った。
      階段をゆっくりと上がる間、彼女の頭の中は霧がかかったように何も考えることができなかった。
      ただ自然と足が動いた。

      彼女は丘の上の森の道を通ってその先にある神廟にたどり着いた。
      神廟の中ではまぶしい光を放つ巨大な円形の球が空中に浮いている。
      その光の玉が強い光を放つたびに、彼女の名を呼ぶ心の声を感じた。

      ミリが光の玉に向けて手を伸ばした。
      手を近づけると、光の玉から長い鎖が伸びて来て、彼女の手首に巻き付いた。
      次の瞬間、光の玉が突然強烈な光を放って消え、その場に巨大な武器が現れた。
      半円型の武器。
      それはミリが夢で見たあの武器だった。

      その時になってようやくミリの頭の中の霧が晴れ、彼女は正気に戻った。
      彼女は夢の中と同じく、鎖から逃れようともがいた。
      しかし、鎖は彼女の手首にしっかりと巻き付いて離れようとしない。
      そして彼女が逃げだす前に、鎖から武器の記憶が流れ込んできた。

      真っ白い空間だった。
      そこには武器が浮いているだけで、何もなかった。
      ミリは辺りを見回した。
      人も物も風景も、音すらなかった。

      “ここは?”
      “ここはドレイカーの魂が眠る場所。 使命を持つ記憶の場所。”

      武器から声が流れ出した。
      ぶっきらぼうだが温かく、鋭いが懐かしい声だった。

      “ドレイカーの最後の末裔よ。使命を受け入れる覚悟はできたか?”
      “ドレイカー?し、使命……。一体、何を……。”

      “まず、これはそなたが知るべき過去だ。”

      ミリが戸惑う様子を見せても、武器は待ってくれない。
      当たりの景色が回転する走馬灯のように残像を遺しながら変わり始めた。
      まるで時間をさかのぼるように。
      最初の風景、そこはソランだった。
      そして、次第に風景は時間をさかのぼり、ソランの城壁が建てられる前、王国が建国される前、大地の風化が山脈を削る前の、ここに巨大なドラゴンの神殿が存在していた時代を映しだした。

      そこは灰色に満ちた古代の記憶。
      ドラゴンの神殿には銀の髪を持つ一人の人間の女性が、神殿を訪れる人々を見つめながら立っていた。
      彼女の前には数百名の人々が集まり、跪いて彼女への敬愛を示していた。
      人々は彼女を'巫女様'と呼んだ。
      巫女の手から魔法の炎が燃え上がり、傍で膝をついていた司祭の手の上に移った。

      “彼女は我らの力を必滅者たちに伝えなければならないと主張した。”

      武器が彼女に語りかける。
      今度は風景が少しずつ回転して、時間が少しだけ進んだ。
      過去の記憶は、再びドラゴン神殿を映し出す。
      神殿の中で巫女と呼ばれていた女性と、一人の男性神官が話をしている。

      “我が血筋の娘よ。どうしても必滅の者たちに我らの力を全て伝授するというのか?彼らは運命を変える力を持ちながら運命に従う者たちだ。"

      神官の問いに、巫女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま口を開いた。

      "私たちドレイカーの血は少しずつ力を失っています。このままでは使命を果たせぬまま終末を迎えてしまうでしょう。今や私たちが使命を果たす方法はこれしかないのです。"

      巫女は胸に抱いた赤ん坊を神官にそっと見せた。
      神官は赤ん坊をじっと見つめながら言った。

      “我らの血を受け継ぎながら、必滅の者として生きてくのか。これがそなたの選択なのだな?”

      神官の問いに、巫女は静かにうなずいた。

      また風景が回転して、次の記憶を映し出す。
      今度は赤黒い色の記憶だった。
      先ほど見たドラゴンの神殿が燃えている。

      "善良なる民を惑わし、邪教を広めた者たちを倒すのだ!邪教の教祖、巫女の首を刎ねた者には、王から褒美が与えられるぞ!”

      燃え上がる神殿に、王家の武士たちが押し寄せた。
      彼らはドラゴン信仰を追放し、王国の権力を強固にするため王国が雇用した者たちだった。
      ドラゴンたちが神殿前の広場に集まる武士たちに向かって飛びかかる。
      神殿の中に入れないよう阻止しようとしていたのだ。
      神殿の中で、巫女は胸に抱いた赤ん坊を見つめて頬を撫でていた。

      “私たちの最後の末裔。ついに時が来てしまいましたね。母親なのに、あなたをもっと長く守ってあげられなくてごめんなさい…。”

      巫女は片手で赤ん坊を抱いたまま、もう一方の手で祭壇の遺物を持ち上げた。
      そして、遺物の力を使って光の玉を作り出した。
      それは次元の隙間に向かう通路だった。
      彼女は少しの迷いもない微笑みと共に、赤ん坊と遺物を光の玉の中に押し込んだ。

      “どうか……、ドレイカーの記憶があなたを正しい道に導きますように。”

      次の瞬間、神殿の関門が突破されて武士たちが押し寄せてきた。
      武士たちの剣が無慈悲に巫女の体を貫く。
      彼女は抵抗しなかった。
      彼女は自らが愛した必滅の者たちが自分に剣を向ける日が来ることを、すでに知っていたのだ。
      彼女の銀髪が命の尽きた花のように床に散った。
      彼女の命が絶えるのと同時に、人間の姿が崩れ始め、巫女の体は巨大なドラゴンの形に変化し始めた。
      一つの存在が消えていく様子を、ミリは悲しみと共に見守るしかなかった。

      “そして、これはそなたが知るべき現在だ。”

      再び永遠にも思える月日が流れ、彼女はソランの風景の中に戻ってきた。
      その昔ドラゴンの神殿があった場所には、巨大な神殿の代わりに小さな神廟が一つ建っていた。

      一瞬、神廟の前に巫女が作った光の玉が現れた。
      その光の玉から、巫女に抱かれていた赤ん坊が再び姿を現す。

      突然空から降ってきたようなその赤ん坊を受け止めたのは、一組の若い夫婦だった。
      それは、ミリには信じがたい光景だった。

      "母さん?父さん? "

      神廟の前にいる若い夫婦は、間違いなくミリの両親だった。
      彼女が驚く間もなく、風景の回転と共に夫婦と赤ん坊の記憶が過ぎ去っていった。
      赤ん坊はどんどん成長して元気な女の子に育った。
      少々変わった能力を持っていながら、自分を普通だと信じている少女。
      それは、他の誰でもないミリだった。

      “私……なの?”

      記憶の中のミリはいつの間にか現在に戻っていた。
      ミリの目の前には、まるで鏡に映ったように自分の姿を見つめるもう一人の自分がいた。
      二人の瞳が同時に不安に揺れた。
      そして、一筋の涙と共に記憶の中のミリはゆっくりと散っていくように姿を消してしまった。

      “最後に、これがそなたの知るべき未来、使命の瞬間だ。”

      それは、いつなのかも分からない未来の記憶。
      彼女は世界の崩壊を目論む古代のドラゴンと対峙していた。
      赤い翼を持つドラゴンの前で、世界は崩壊し人々は涙を流していた。
      ドラゴンと対峙するミリの手には、今記憶を見せているあの武器が握られている。
      巨大な武器を軽く突き上げた彼女の眼には、一点の迷いもブレも無かった。

      “私が……。そんなはずない……!”
      “使命を受け入れた時、そなたはドラゴンナイトの力を取り戻すだろう。”

      武器の最後の一言と共に、ミリが現実の神廟の風景に戻ってきた。
      彼女の目の前には、今も宙に浮く武器がある。
      未来の記憶の中で彼女が手にしていたのは、まさにその武器だった。

      鎖がするっとミリの手首から離れた。
      そして訪れる静寂…。
      まるで武器が彼女の選択を待っているかのようだった。

      ドラゴン。
      ドレイカー。
      末裔。
      使命。
      ドラゴンナイト。

      彼女はその全ての考えを振り払おうとした。
      しかし、いくら否定しようとしても無駄だった。
      彼女の意識のどこかで、全てが事実であると分かっていたのだ。

      ‘使命を受け入れる覚悟はできたか?’

      頭の中に、武器の一言がまた思い浮かんだ。
      ミリは神廟を出て階段を駆け下り始めた。
      今は何もかもに背を向けて逃げ出したかった。
      彼女には、全てがあまりにも重すぎた。
      彼女の平凡な暮らしが静かに崩れていく。

      "姉ちゃん、大丈夫?どこか悪いの? "

      今日もマルが部屋の前まで来ていた。ミリは大丈夫だから、と弟に言い聞かせて帰した。
      何日経っても、手首に巻き付いた鎖の感触が消えない。
      武器の記憶はミリを'ドレイカーの最後の末裔'と呼んだ。
      ドレイカー。
      記憶によると、それは力を失って姿を消したドラゴン種族の一つのようだ。
      ミリは記憶の中で見たドラゴンたちと武士たちの剣で命を落とした女性ドラゴンを思い浮かべた。
      ドレイカーの末裔って一体何なの?
      私は人間ではないの?
      人間でないなら、私はいったい何者なの?

      彼女は部屋を出るのが怖かった。
      真実と向き合うのが怖かった。

       

       

       

      数日後、ミリは悩みに悩んだ末、両親に会うことにした。
      いつまでも悩んでばかりではいられない。
      一番大きな疑問と向かい合わなければ、先に進めそうになかった。

      二人はいつもと同じように笑顔でミリを迎えてくれた。
      ミリはその姿に、どこか距離感のようなものを感じた。
      ミリはドレイカーの記憶の最後の部分を両親に話した。
      それが事実なのか、両親の口から聞きたかったのだ。
      ミリの質問に、両親の表情が徐々に固まっていく。
      それだけでミリは両親からの答えを予測することができた。

      両親の心配する声に、ミリは大丈夫だとにっこり笑った。
      ただ事実を確認したかっただけだと言って。
      この事実を知っても、家族は家族。
      そう思うと、意外と簡単に受け入れることができた。
      その日の夜は家族と一緒に食事をした。
      いつもと変わらぬ、楽しくて幸せな時間だった。

      悲しみはかなり後からやって来た。
      部屋に戻って一人になった時、静けさと共にミリは自分が独りぼっちだと悟ったのだ。
      彼女の魂は深い水の中にどんどん沈んでいた。
      水の上から自分に向かって伸ばされた手が見える。
      力の限り手を伸ばしてみたけれど、決して届かない距離だった。
      水の上の光が遠ざかっていく。
      家族の手もだんだん見えなくなっていった。
      そして、彼女がたどり着いた底には、光など存在しなかった。

      私は、一体、何者なの?
      涙だけが、彼女を迎えてくれた。

      -

      数日後、ミリは再び神廟を訪ねた。
      自分の存在についてもっと詳しく知りたかった。
      だが、神廟に到着した時、そこには光の球も武器もなかった。

      ミリは神廟の前に座り込んだ。
      まるで道に迷ったように、先が見えない。
      どこへ行けば自分のルーツを探せるのだろうか。

      その時、考えにふけっていたミリの方へ、周辺の森から多数の足音が近づきつつあった。
      実はミリが気づかなかっただけで、神廟の丘を登っている途中からずっと彼女をこっそりと追う集団がいた。
      その集団の人々がゆっくりとミリの前に姿を現す。
      人々は武士や僧侶、商人など様々な服装をしていた。
      街に紛れ込むために、それぞれ違った服装をしてソランに入り込んだ者たちだった。

      "何も聞かずに、おとなしく我々と共に来てください。"
      “ね、姉ちゃん!”

      ミリは気が遠くなりそうだった。
      武士の服装をした男の手に、マルが人質として捕らわれていた。
      男の片手に握られた剣が、マルの首に向けられている。

      “弟を放して!”
      "あなたの力を必要としている人たちがいます。弟に怪我をさせたくなければ、我々に従ってください。"
      “何を言っているのですか?私は……、私には力なんてありません!お願い、弟を放して!”

      ミリは叫んだが、男は脅迫をやめなかった。
      男は無言のまま、マルの首に鋭い剣をぐっと押しあてた。

      “……!分かりました!言う通りにします!”

      ミリは武士の言葉に従うしかなかった。
      縄をもった僧服の男がミリの方へ一歩ずつ近づいてくる。

      "姉ちゃん……。"

      その時…。
      マルを人質にしていた武士の背後に、影が一つ現れた。
      影は武士の膝裏を蹴り付けて姿勢を崩させ、マルをぐっと懐に引き寄せた。
      武士が突然の衝撃に悲鳴をあげて振り返る。
      武士が振り返った時、武士の目前で二つの銃口が彼をにらみつけていた。
      影の手に握られていたのは、銃口が二つある巨大な銃砲だった。

      "動くな。弾丸を無駄にしたくない。"

      影の正体は、西の別棟に寝泊まりしていた大剣の男だった。
      男は武士に銃口を向けたままマルの背中を押して、階段を降りるよう促した。
      それと同時に男は床に落ちた武士の長剣を蹴り上げ、ひょいっと拾い上げる。
      剣と銃砲で武装した男が、集団をにらみつけた。

      "チッ、面倒なことになったな。おい、とりあえず女を捕まえろ!大事な魔法材料だ。殺すんじゃないぞ。”

      男の登場で、集団の表情が暗くなった。
      マルという人質を失ったうえ、邪魔者まで現れたので、この際どうにかしてミリだけを連れて逃げることにしたようだ。
      集団は銃砲を持った男を無視し、ミリに向かって駆けだした。

      集団が駆け寄ってくるのを目にした瞬間、ミリは妙な感情を感じていた。
      マルの首に剣を押しあてた者たちへの怒り、男の登場による安堵感、自分の無力さへの絶望感が混ざり合った感情…。

      ‘使命を受け入れた時、そなたはドラゴンナイトの力を取り戻すだろう。’
      ‘私には……、何の力もありません。’

      使命を受け入れる覚悟のない自分は無力な存在だった。
      だけど、もしも使命を受け入れたら……。
      幸せな日常を守る力が手に入るの?

      短剣を持った僧服の男がミリに襲い掛かる。
      短剣が彼女の体に触れようとした瞬間、神廟の奥から武器が現れ、僧侶の顔をものすごい力で攻撃した。
      彼女の手にはいつの間にか武器から伸びる鎖が握られていた。
      彼女が鎖を引き寄せると、武器はそのどっしりとした見た目に反してあまりにも軽く彼女の手に飛んできた。

      ミリは初めて武器の柄を握った。
      手の内側から神秘的な気を感じる。
      武器の中心から全体を包み込むように、熱気が少しずつ湧き上がってきた。

      武器が彼女に問う。
      平凡な少女のままでいるか、それとも使命を選択するのか。

      ミリは自分に襲い掛かる集団を相手に、自分の初めての覚悟を見せることにした。
      彼女の手から伸びる武器が、丸い軌跡を描いて空中を回転した。
      武器の軌跡を辿るかのように、魔法の炎が空中に現れる。
      彼女の意志通りに動く武器は、この上なく軽かった。
      だが、彼女と対峙する者たちにとってはこの上なく思い武器だった。
      ミリが攻撃した軌跡を追うように、集団の武器は一瞬で粉々になる。
      最初から集団の武器だけを狙った攻撃だった。
      ミリに集団の命を奪う意志はなかった。
      ドレイカーの使命を受け入れることと、彼らの命を奪うことは何の関係もなかったからだ。

       

       

       

      事件は収束してミリを連れ去ろうとした犯人たちは全員投獄された。
      ミリとマルが危険にさらされたと聞いた両親も、青ざめた顔で駆け付けてきた。
      二人をしっかりと抱きしめて涙を流す両親を見て、ミリは二人の愛を心から感じることができた。

      ミリは事件の経緯をどう説明すればよいか、かなり悩んだ。
      幸い、犯人を倒したのは伝説の傭兵'大剣のハルク'だったという噂が流れたおかげで、事件は一段落した。
      彼はソランを発つ前に二人に別れの挨拶をしようとした時、犯人たちの怪しい動きを目撃して後を追ったと話した。

      ハルクは事件が落ち着くのを待って、改めてソランを去って行った。
      今回は大剣と共に…。
      男はミリと別れる時、自分の助けは必要なかったのではないかと笑った。
      去りゆく男を見つめながら、ミリは自分の力と使命、そして自分のルーツについて改めて考えた。
      いつの間にか、平凡な女の子の暮らしなど完全に吹き飛んでしまった気分だった。

      ミリは再び丘の上の神廟を訪ねた。
      人々の目を避けて‘ドレイカー’と向き合うには、ここしかなかった。
      彼女はいつの間にかドレイカーの魂と記憶を持つその武器を‘ドレイカー’と呼んでいた。
      ミリはドレイカーの起源と使命についてもっと知りたかった。
      それは、自分自身をもっと知りたい気持ちと同じだった。
      だが、ドレイカーが見せてくれた記憶だけでは、彼らのルーツと歴史を完璧に理解することはできない。

      ミリはドレイカーを通じてもう一度未来の記憶と向き合った。
      彼女が経験することになる使命の瞬間の記憶。
      赤い翼のドラゴンが記憶の中のミリに向かって強烈な炎を吐き出した。
      記憶を見守るミリまでも燃やしてしまいそうな炎を感じる。
      だが、記憶の中のミリは一人ではなかった。
      記憶の中でドラゴンの火炎が止まると、そこにはミリを守っていた盾を持つ一人の女性がいた。
      彼女だけではない。

      世界の運命と戦うミリは、一人ではなかった。
      涙を流す人々に寄り添い、手を握る男。
      傷ついた人々を慈愛に満ちた微笑みを浮かべて癒す女。
      誰よりも前に出て怪力で敵をねじ伏せる男。
      彼女の背後に、共に戦う仲間たちの影が見えた。

      ミリは改めて赤黒い火薬の中で見た果てしない戦争を思い起こした。
      世の中は今も誰かの悲しみの上に、なんとか成り立っている。
      ドレイカーの使命が何なのかはまだはっきり分からないが、この世界は今も得体のしれない闇の中に置かれているような気がした。
      記憶の中の人々は、誰もがこの世界の闇と戦っていた。
      ミリは自分もこの世界の闇を打ち払うために、ドレイカーの能力を使いたいと思うようになった。

      -

      "本当に行っちゃうの? "

      マルが泣きじゃくりながら言った。
      ミリはそんなマルの頭をそっとなでる。
      ミリは悩んだ末にソランを離れ、旅に出ることを決めた。
      使命を果たすという目的もあったが、そのたびで自分の能力をさらに引き出せれば、自分のルーツと使命の意義についてももっと理解できるようになると思ったのだ。

      ミリはしゃくりあげるマルの肩を優しくたたきながら、温かい微笑みを浮かべた。

      “行ってくるね。”

      彼女が海へ向かう場所に乗り込んだ。
      馬車を使っても十日はかかる遠い道のり。
      だが、ミリに不安はなかった。
      ドレイカーをぎゅっと握りしめる。

      馬車はゆっくりとソランの城門をくぐり始めた。

       

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      「ミリ キャラクターストーリー」より

       

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      デリア :: キャラクターストーリー

      0

        暖かい日差しが降り注ぐ秋の日だった。
        ある王国の国王と王妃、そして彼らと同じ明るいブロンドの髪をした子供たちが軽やかな足取りで遠足に出掛けていた。
        近くには気を張り詰めた兵士たちがゆっくりと周りを警戒しながら護衛しており、久しぶりに家族みんなで外に出られたことに大喜びの子供たちはそれぞれ、オモチャの木刀を持って先を争って走りまわっていた。

        その中で一番活気にあふれ走っているのは、末っ子のデリアだった。
        自分より頭一つ大きい兄たちに混ざり、勢い良く「かかってこい!」 と騎士の真似をする姿は、誰が見ても愛おしく感じる光景だった。

        意気揚々と挑発するデリアに、兄たちはヤンチャな笑みを浮かべながら、かかっていった。
        遠くから眺めていた国王は、またデリアが危ない遊びをしようとしている姿を見てそわそわしていたが、王妃は「まだ幼い子供なのですから仕方ありませんよ」と、困ったような笑顔で夫をなぐさめた。国王はそんな末っ子が常に気掛かりで心配であった。
        末娘のことになると、常に過保護になりがちな王をなぐさめることに慣れた光景であった。

        遠くから、兄たちから勝利を勝ち取ったデリアがきれいな金髪をぼさぼさにして、今の姿を見たかと王と王妃に駆け寄る姿が見えた。
        王はその日も、娘のために用意してきた高級な可愛い人形をそのまま城に戻すしかなかった。

        デリアがお嬢さんと呼ばれる年齢になると、国王はこれ以上耐えられぬといい、愛娘から剣を奪った。
        剣の代わりに許されたのは手芸と社交ダンスの授業などだった。
        デリアは当然反発した。
        騎士になるために王国を離れ修行に出る兄たちを見送り、自分もすぐ後から付いていくと言ったのがつい最近のことだ。
        もう自分の行くべき道を進んでいる兄たちがいるのに、こんなままごとのような授業を大人しく聞いていることは到底できなかった。

        「姫様!デリア姫様!」

        手芸の授業をこっそり抜けたデリアを探す侍女の声が広い廊下いっぱいに響いた。
        何度も似たような状況を経験している侍女は、すぐ王宮裏手の軍事訓練場に向かった。

        「これで5連勝ね、お兄さん?」

        試合を終えたデリアが無邪気な笑顔でぴょんぴょん飛び跳ねながら言った。
        剣を握ったまま地べたに座って、虚しく笑う対戦相手は、歳があまり変わらない一番下の兄であった。

        「ゴホン。姫様、試合が終わった後は礼儀正しく相手に敬意を払わなければなりません。」

        審判をしていた剣術の教官が、デリアにやや控え目に注意した。

        「ごめん、ごめん!それじゃ、お疲れ様でした。」

        デリアは教官の言葉通り、ペコリと頭を下げた。

        「ハハ、その実力なら、お前が僕の代わりに戦いに出てもいいね、デリア。」

        地べたに座り込んでデリアを見上げた兄は、仕方がないといったような表情で言った。

        次の遠征に自分も一緒に行くことになったというのだ。
        今まで訓練だけだった兄の実戦デビューの知らせでもあった。

        デリアは気丈に振る舞って兄を応援したが、心の中では複雑な気持ちになっていた。
        以前も一番上と二番目の兄を戦場に見送ったことはあったが、年齢も近くて今まで一番多く競い合ってきた相手である一番下の兄が、自分があれほど望んでいた戦場に出るということに、素直に喜ぶことができない彼女であった。
        複雑な感情に揺れ動きながらデリアはいつもより早く訓練場を去った。

        国王は愛娘デリアの「騎士ごっこ」がいつまで経っても終わる兆しが見えず、頭を痛めていた。
        やさしく諭しても、無理やり王女教育を受けさせても、デリアは全く従わなかった。
        むしろ一番下の兄が戦いに出るという知らせに刺激を受けたデリアは、以前よりも授業を逃げ出して、少しでもたくさん剣術を磨こうと、練習に励んでいた。

        静かに続く父と娘の神経戦に、先に参ったのは父のほうだった。
        自分に対して冷ややかな態度で接する娘に耐え切れなかった王は、デリアに「王女の責任を果たしながら騎士としての成果をあげたら騎士になることを承諾する」と条件をつけた。
        きっと2つの内、1つは諦めることになり、そうすれば素直に約束を守って剣を捨てさせることができるはずと思ったのが本音だろう。

        デリアはこれから授業を抜け出せなくなることが少し不満であったが、こっそり剣術訓練をしなくて済むだけでもかなり嬉しかった。デリアは迷うことなく、喜んで父の提案を受け入れ、親子の神経戦は一段落した。
        その日、王は久しぶりに可愛い末娘の笑顔を見ることができた。

         

         

         

        デリアは王国騎士団の小さな部隊に入ることになった。
        デリアを引き受けることになった部隊長は仕方なく連れては来たものの、王女のことをお荷物としか思わなかった。
        訓練中デリアに傷でもつけたら、牢屋に閉じ込められるのではないかと心配になった。そして、部隊の他の兵士たちも同じようなことを考えていた。

        王女の「騎士ごっこ」に付き合わなければならない状況に不満を持った一部の兵士たちはデリアに雑用ばかりさせたり、王女様、王女様と皮肉な態度をとっていた。
        ただし残念なことに、そんな兵士たちの行動は王女本人には響かなかった。
        むしろ、彼らがやらせた雑用でさえも楽しくやるデリアは、夢に描いた騎士団生活を満喫しているおかげか全く気にも留めなかった。

        そんなある日、稽古中にお互い力を入れすぎたあまり、相手だった兵士がデリアに大怪我を負わせてしまった。
        デリアは笑いながら平気だと言ったものの、デリアの傷を見た王は、犯人を探せと激怒した。
        稽古相手の兵士はぶるぶる震えながら頭を下げ、デリアを嫌っていた連中は、いつかこんな日が来ると思っていたと、不満を隠さなかった。

        平身低頭して脅えている兵士に罰を与えようとした王を止めたのはデリアであった。
        王に対し、冷静になるようにと諭しながら、落ち着いて説得するデリアから少女の顔に隠れていた王女の姿が垣間見えた。
        王は娘のことで感情的になったのは間違いだったと謝罪し、罪なく捕まった兵士には手厚く償った。

        その日から、王国騎士団ではデリアを無視することは一切なくなった。
        むしろデリアが戦闘や遠征に参戦する度に兵士たちの士気が上がっていた。
        デリアはやがて小規模の戦闘や遠征に出るようになり、常に目標以上の成果を得て帰って来た。
        戦場でさまざまな勝利を積んでいく彼女は、王が望んでいた方向とは違う方向に、着実に成長していった。

        王女と騎士としての仕事を順調にやりこなす娘を見て苛立たしい感情をおぼえた国王は、娘が所属する部隊の兵士たちに次の遠征でデリアを妨害して失敗させるように命令した。
        兵士たちは自分の意志とは関係なく、王の命令に従うしかなかった。
        遠征に出ると、がらりと変わってしまった仲間の態度に苦しみながら任務を遂行しようとしたデリアの努力にもかかわらず、任務は失敗した。
        王はデリアに最初にした約束を口にして再度剣を奪ってしまった。

        王はこのチャンスを逃がさないと言わんばかりに、デリアと隣国の王子との婚約を突然決めた。
        隣国の豊かで発展した姿と王子の貴い品性を強調しながら、父が娘のためにどれだけ慎重に相手を選んだのかを熱く語っていた。
        しかしデリアはつんとした顔で聞いているたけで、どうすればこの場から逃げられるかしか頭になかった。

         

         

         

        婚約を執り行う前の形式的な行事中に王子の舞踊を披露する剣闘会が始まると、デリアはやっと少し興味を示した。
        しかし王子の剣術の実力はデリアの興味を満たすにはとうてい足りなかった。

        見るに耐えきれず、デリアは止める侍女の手を振り切って、丁寧に時間をかけ着させられたドレスをたくしあげて、そのまま闘技場に飛び込んだ。
        歩哨兵の剣を奪って、闘技場の垣根を大胆に飛び越えるデリアは、幼い頃兄たちと剣で競い合っていた時に見せた、いたずらっ気たっぷりの少女の笑みを浮かべていた。

        デリアは予定よりも早く帰って来た。
        王は帰って来た侍女から、剣闘会に乱入して王子を剣術で叩き伏せたデリアとの婚約を先方が丁寧に断ってきたという知らせを聞いて、頭痛で眉をしかめ、娘にしばらく謹身することを命じた。

        王宮から離れた塔に閉じ込められたデリアは、この王国では決して自分が願う道に進むことが叶わないことに気付いた。
        デリアは王国と家族たちを愛する心と王女としての責任を手紙一枚にしたためた後、
        空が黒い雲に覆われ月明りすらない、ある日の夜、そっと塔を抜け出した。

        城壁に辿り着いた頃、見回りの兵士が王宮を抜け出そうとしていたデリアを発見した。
        ばれたと思って絶望しそうになったデリアに、兵士はこっそり出られる抜け道を教えてくれた。
        その兵士は以前デリアを傷つけ、王から不当な処罰を受けそうになった者だった。
        デリアは小さい声で感謝を述べ、彼が教えてくれた方向に走って行った。
        兵士はその方向に進むと、少し珍しい人々が住む村に出るはずだと言った。

        暗闇の中、兵士が教えてくれた道を信じて無我夢中で走っていると、いつの間にか遠くに村が見えてきた。
        村に入ったデリアは、この場所を教えてくれた兵士がどうして少し珍しい人々が住む村だと言ったのかすぐわかった。
        住民たちを含め、建物も道具も今まで見たことがないくらい大きなその場所は、ジャイアントが集まって住む村であった。
        幸い、彼らは外部の人間の訪問を受け入れてくれた。そしてデリアはここを教えてくれた兵士の名前を知るジャイアントを探し、しばらく泊まらせてもらうことができた。

         

         

         

        外部からの人の足どりが中々及ばない所だからか、高級そうな服を着て、たった一人で訪ねてきた金髪の少女はあっという間に村人たちの関心事となった。
        彼らはデリアについてあれこれ尋ね、デリアは王女という身分以外、彼らが尋ねることに素直に答えた。そしてそんな彼女の真摯な態度にすぐ彼らは心を開いてくれた。

        会話中に、誰かがここに来た理由を尋ねると、デリアは騎士になるための旅の途中だと答えた。
        騎士という言葉にジャイアントは目を輝かせ、デリアに実力を見せてくれと言ってあわただしくその場を設けた。
        優れた体格を持った人々であるだけに、各々武芸に長けていて、強い関心を持っているようだった。

        デリアは城から脱出時に持って来た剣を手に取り、今まで一生懸命に修練して磨いてきた剣術を自信満々に披露した。
        彼女の王室の正統剣術を見た村人たちは、そんな踊り子のような動きで何が斬れるんだと、周りに笑い声が響いた。
        皮肉った本音がない豪快な笑いに、デリアの顔は真っ赤になり反論をはじめた。

        そんなデリアを可愛いと思ったのか、またひとしきり笑い声が響いた。
        頬を赤くして息巻くデリアに、村の鍛冶屋のようなジャイアントが大きな剣を一つ渡してくれた。手にしたその剣はずっしり重みのある大剣であった。

        「その剣は我々の村で一番小さい剣だ。当然、武人ならこのくらいの物を使ってこそ、力が発揮できるんじゃないか?
        ハハハ。どうやら、事情があってここまで来たようだし、これは我々からの歓迎のプレゼントだと思いたまえ、兄弟よ。」
        「私は兄弟ではありません!」

        反射的に言い返しながら、デリアはバスタードソードにしか見えないその剣が、一番小さい剣ということに驚きを隠そうと必死だった。
        何か負けた気がした彼女は、しばらく村に残ってジャイアントからその剣の扱い方をこの機会に学ぶことにした。

        その「バスタードソード」に慣れてくるとデリアは王宮を発つ時に持って来た剣よりも、「バスタードソード」を多く使うようになった。
        彼らが教えてくれる自由奔放な剣術が気に入ったこともあったし、これを与えてくれた彼らの強靭さが自分にも伝わって来るようだったからだ。

         

         

        時が流れ、デリアがジャイアント村を去る日が近づいてきた。
        剣を渡してくれた鍛冶屋はデリアに海の向こうにある「コレン」という村について教えてくれた。
        実力のある傭兵団がいる村で、騎士になるための経験を積むにはそこがお勧めだと言った。その言葉を聞いたデリアはす、すぐに目的地をコレン村に決めた。

        かなり長い間、船に乗って到着したその場所は、思ったより小さな村だった。以前までとても大きい村にいたから小さく見えるのかも知れないと思いながら、傭兵団を探して村を歩きまわっていると、どこか見慣れた体格の人を見つけて、デリアは思わず声をかけた。彼は初対面にもかかわらず人懐っこい顔で、ここには何の用で来たのかと聞いてきた。傭兵団を探しているというデリアの返事に、彼は自分が傭兵団の人間だと言いながら案内しようと言ってくれた。道案内に着いていこうとした時、デリアの背の大剣を見た彼は、大きな手で軽々と剣を持ち上げながらこう尋ねた。

        「この剣はどこで手に入れたんだ?」

        デリアはコレンに来る前にいたジャイアントの村について説明した。

        「その村で何事もなく過ごすことが出来ていたのなら、このコレンでもすぐ慣れるだろう。」

        そう言った男は、一瞬だけ何だか懐かしそうな表情を浮かべた。

        色んな話をしながら歩いていると、いつのまにか目の前に傭兵団の建物が見えた。
        デリアが緊張で高揚する気持ちを胸に入ろうとした瞬間、鐘塔から大きな音が鳴った。
        目の前の門がパッと開き、中に居た傭兵たちが我先にと鐘塔へ向けて一斉に駆けて行った。
        デリアを案内してくれた男も行かなければと、方向を変え傭兵たちが向かった方向に走り始めた。
        状況を把握したデリアは、背中に剣があることを確かめて、彼に続いた。
        自分について来るデリアの姿を見た男は高笑いしながら言った。

        「これが傭兵としての初仕事になるな。見ようによっては、お前は俺の後輩になるから困ったことがあったら何でも言いたまえ、兄弟よ!」

        彼は大きな手でデリアの背中をバンバンと叩いた。
        聞き覚えのある彼の口調に、デリアは手の跡が残りそうな背中を気にしながら反射的に言い返した。

        「だから私は兄弟じゃないですって!」

         

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        「デリア キャラクターストーリー」より

         

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        ヘギー :: キャラクターストーリー

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          子供の頃の思い出はあまり憶えていない。
          物心がついた時に、最初に目に入ったのは自分の手首のところに描かれていた刻印だった。
          まるで蜘蛛を形象化したかのような、八つの足が描かれた奇妙な刻印だった。
          僕はその刻印を見る度に、えもいわれぬ恐怖感に襲われていた。

          「その刻印はケルー家の子にしか与えられない、栄えある勲章だ。」

          僕が刻印を消したがる度に、両親はそう言いながら僕を宥めていた。
          その一言で全ての恐怖感が消えることはなかった。
          しかし、時間が経つにつれ、次第に恐ろしさよりは慣れの感情が自分の中に浸透していった。

          家では常に独りで過ごす時間が多かった。
          両親が家に泊まれる日は数えられるほどで、少なかった。
          大きな屋敷にて独りで過ごす日々を送っていたが、 
          特に不便を感じることはなかった。

          あの日は刈入れ真っ最中の、ある秋の日だった。
          両親が久しぶりに帰って来たので、みんなで食事を済ませた。
          食事後、真剣な顔をして近づいてきた父は、翌朝一緒に行きたい場所があるといい、僕の肩の上に手をそっと置いた。
          その言葉に僕は浮かれ気分になった。
          家族で行く、初めてのお出かけだ。
          僕はわくわくする気持ちを鎮めながら、眠りについた。

          その日の夜だった。
          誰かが上げた悲鳴で僕は目が覚めた。そして、しばらく悲鳴は続いた。
          きっと何かが起きている。
          廊下に飛び出した僕は、声が聞こえる方向へ向かった。
          着いた先は両親の部屋だった。扉は開いていた。

          「!!!」

          部屋の中に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず悲鳴を上げてしまいそうになった。
          真っ赤な血が部屋中に水たまり状となって広がっていた。
          部屋の至る所に、人が血を流して倒れたまま微動だにしなかった。
          信じられない光景を目の当たりにした僕は、足から力が抜けて跪いてしまった。
          多くの使用人たちの死体の中から、すでに死を迎えた父親と母親の顔が見えた。

          「お父さん!お母さん……!」

          僕の叫びを聞いた一人の男が僕の方に振り向いた。
          暗い部屋の中で覆面をした男は、母の遺体を見下ろしていた。

          覆面男の手にはとても変わっている形の短剣が握られていた。
          短剣2つの柄を繋ぎ合わせて作られたような剣、デュアルダガーだった。
          剣からポタポタと、鮮血が滴り落ちていた。
          両親を殺したのは、この男に間違いない。

          気がついた時は、僕は叫びながら男のほうに飛びかかっていた。
          剣を持っている人に何の策略もなく、素手で飛びかかるとは無謀すぎる行動だった。
          しかし、僕は覆面男への恐怖や怒りでまともな判断ができなくなっていた。
          覆面男は殴りかかる僕を素早く避け、目の前で短剣を一度振り回した。
          右目の上が熱くなる感覚と共にドバッと鮮血が流れてくる。
          熱い血液が目の上から流れ落ち、片方の視野を遮った。

          僕は一瞬立ち止まった。
          それが過ちだった。
          覆面男は隙を与えず、近づいてきて僕の腹部に拳を突き込んだ。
          激痛と同時に目の前が真っ暗になった。
          僕は眩暈を感じながら倒れそうになり、その場に座り込んだ。

          覆面男はすぐにでも剣を振りおろし、僕の命を奪うことができただろう。
          しかし、男は僕の予想とは正反対な行動をとった。
          覆面男は、じっと立ったまま僕を見つめて、被っていた覆面を外して顔をさらけ出した。

          覆面の裏から冷たい印象の男の顔が見えた。
          男は持っていた短剣をゆっくり下ろし、
          空虚な目をして僕を見下ろした。
          しんとした静寂が部屋中に行き渡った。
          男の無機質な視線や静けさからくる重圧感に打ちひしがれ、胸が破裂しそうになった。
          男はしばらくして重い口を開いた。

          「お前の両親のようにここで死ぬか。でなければ俺の下で生きるか、どちらか選べ。」

          それは選択という言葉に見せかけた宣告に近かった。
          僕は男を睨みつけるだけで、答えなかった。
          死と服従の間に立たされた僕は、どちらも選ばなかった。

          この人殺しはどうして僕を殺さなかったのだろう?
          僕はなぜ人殺しに付いてここまで来たのだろう?

          暗い部屋の中で、疑問だけが脳内に降り積もっていく。
          同じ質問が数百回も頭の中に繰り返される。
          なぜあの時、何の答えもできなかったか、幾度となく自問する。

          結局、僕は死から逃げるために服従を選んだのだろうか?
          結論に辿り着けないまま、己の命を救ってもらうために
          人殺しにのこのこ付いてきた自分が悔しかった。

          「エイルだ、エイル!」

          扉の外側から騒がしい笑い声が聞こえてきた。
          今の僕をあざ笑うような声だった。
          時々聞こえてくるその笑い声が、僕の頭の中をさらに複雑にする。
          部屋の中に入ってくる声が、全部まだ幼い子供たちのものだったからだ。
          あの人殺しはこの家で子供たちと住んでいる。
          自分の両親を残虐に殺した人殺しが子供たちと一緒に暮らしていることに、何とも言えない複雑な感情をおぼえた。

          そしてここには人殺しや小さな子供たちだけではなく、僕と同年代の子たちも一緒に生活しているようだった。
          僕に食事を持ってきてくれるアジェイスという女の子も僕と同じ年頃だった。

          部屋の扉を開けて、誰かが中に入って来た。
          隙間から漏れ出してくる日差しを避けて、僕は身体をさらに丸めた。
          ため息が混じった声と共に僕の方に近づく足音が聞こえてきた。

          「おい、お前。ずっと食べなかったら飢え死にするぞ?」

          人殺しの声だった。
          部屋のベッドには、昨夜アジェイスが持ってきてくれた食事がそのまま置いてあった。
          ふん、食べるかどうかなんてお前には関係ない。
          僕は抑えきれない怒りを我慢しようと必死だった。

          今すぐにでもあいつをたたきのめしたい。
          だが奴は、僕の気持ちをものともせず、ベッドの上に置かれたお皿を手に取り、カチャカチャと音を立てながら食べ始めた。
          そして咀嚼しながら話を続けた。

          「ずっとこうしているつもりなら、どうして俺について来た?あそこで死ねばよかったじゃないか。」

          奴の自分勝手な発言に、我慢の限界がきた。
          僕は顔を上げ、目の前でのんきに座っている奴を睨みつけた。
          そうすると、奴は僕の目を見てせせら笑った。

          「よし。じゃあ、これはどうだ?」

          人殺しは僕に新しい提案をした。
          奴が吐く戯言は今回も詭弁にしか聞こえない。

          「俺から幻影術を学べ。その代わり訓練中、いつでも俺を殺していい。俺を殺して、お前の両親の復讐をしろ。」

          しかし、以前とは違って今回の提案には復讐という名目が付いていた。
          僕は彼の提案を受け入れた。
          復讐を選んだのだ。

           

           

          人殺しはエイルというダサい名前だった。
          僕が提案を受け入れると、エイルは短剣を1つ手渡し、いつでも襲いかかってきていいと言った。
          武器まで渡しながら復讐するチャンスを与えてくれるわけだから、僕がその提案を断る理由はなかった。

          「何だ、のろまだな。カタツムリと友達になる気か?」

          僕は毎日のようにエイルに挑戦した。
          両親の仇を取るため。
          僕は彼の首を狙って短剣を幾度となく振り回した。
          しかし彼は僕の攻撃をあまりにも簡単に避けていた。
          まるで、僕がどうやって攻めるかを、すでに知っているかのように。

          「普通の剣は、何でも斬るが、幻影剣は斬ろうとするものだけ斬れるようコントロールできるのさ。 」

          彼は僕の挑発が終わると、偉ぶりながら僕に幻影術を教えた。
          彼が言う幻影剣とは、精神力によって作られた、実在しない剣のことだった。
          幻影剣は普通の剣とは違って術師が必要とする時のみ、実体化される剣だった。
          いわゆる、普通の剣は鎧を着た敵を攻撃する時、鎧に当たって致命傷を与えることが難しいが、幻影剣を使うと、鎧に直接触れなくても敵の身体、ひいては敵の臓器を直接斬ることも可能ということだった。

          「幻影術は、ケルー家だけの特技さ。生まれつき持っているだろうから、すぐにできるさ。」

          幻影術を習って、エイルに復讐しようと決めたのと同時に、僕には一つ疑問が生まれた。
          彼の話によると、幻影魔法と幻影術はケルー家の人間だけが使える。
          僕の手首に描かれている刻印、この刻印はケルー家の一族である証だ。
          だから僕が幻影術を扱えるのは当然のことだった。
          しかしエイルの奴も幻影術を扱えるではないか。

          これはエイルの奴が僕と同じケルー家の人間だってことじゃないか。
          だとしたら、なぜ奴は両親を殺したんだ。
          様々な疑問が湧いてきたが、彼に直接問いかけることはできなかった。

          この森の中の小さな家にはエイルを含め、10人くらいの子供たちが一緒に生活していた。
          子供たちはお互いのことを家族と呼び合った。
          まだ家事ができない8歳以下の小さな子供たちが7人いて、
          この子たちの面倒を見て家事を担当しているリア、ミシェル、アジェイスみたいに僕と同年代の子たちもいた。

          大人は一人もいなかった。
          あ、唯一の一人。ロード博士という人が、家の裏側にある別室で暮らしているという話を聞いたが、僕はまだ一度も出くわしていない。
          とにかく、その人を除くとこの家には全員子供しかいなかった。

          僕はだんだん幻影剣を実体化することに慣れてきた。
          そして複数の幻影剣を同時に作ることもできるようになった。
          僕は精神力を集中して、幻影の短剣6つを同時に作って四方に投げた。
          周りには丸太で作られた的が置かれていた。
          僕の意識によって素早く飛ばされた幻影剣が、的である6つの丸太を一瞬にして貫いた。

          「ヘギー、すごい!まだ学び始めてあまり経っていないのに全部…!」

          僕の練習を見ていたアジェイスが嘆声を上げた。
          たった、これくらいのことで大げさになるなんて、僕のことをからかっているんだなと思った。
          後ろを振り向いてみたら、アジェイスが目を丸くして感心した表情をしていた。
          これはからかっている人の顔ではない。
          そういえば、こいつは初めて会った時からこんな性格だったなーと思った。
          別に深く考えていないというか、明るいって言えばいいのか。変わっている奴だった。

          「そりゃあ、僕は天才だから、出来ないことなんてない。」

          僕の一言にアジェイスが冷たい目をして僕を見た。
          事実通り話しただけなのに、自分の目で見たことを認めようとしない奴だった。

          とはいっても、アジェイスはこの家の住人の中でも一番気楽に話せる相手の一人だった。
          常に、首に包帯を巻いているこの短髪の少女は、僕がここに初めて来た時から一度も見逃さず、僕の後ろを、ちょろちょろといつも付いてきた。
          僕が一貫して無視する態度をとっても、仲良くしようと毎日のように絡んでくるせいで僕はお手上げするしかなかった。そして、気付いたら一言、二言くらいは交わせる仲になっていた。

          僕の予想とは違ってここの子供たちは平凡な子達で、とても優しかった。
          僕が日課のようにエイルの奴の命を狙って襲いかかる姿を見ながらも、僕に嫌味のひとつも言う子はいなかった。

          僕が混乱している理由はそれだけではなかった。
          この前、ミシェルという女の子が急に発作を起こした。
          彼女はいきなり倒れて、呼吸困難を起こしたように息が荒くなっていた。
          周りの皆がパニック状態になり、エイルを探した。
          ちょうど駆けつけたエイルが、治癒魔法を使って応急措置をした。
          幸い、ミシェルは容態を取り戻した。

          そして、その時僕はエイルに抱かれて運ばれるミシェルの膝から僕と同じ刻印を見つけた。
          蜘蛛を形象化したような8つの足が描かれている刻印だった。

          『その刻印はケルー家の子にしか与えられない、栄えある勲章だ。』

          幼い頃聞いた両親の一言が頭の中を一言が頭の中を駆け巡っていた。
          僕は手首の刻印をもう一度見つめた。
          ズキズキと鈍い痛みを感じる。
          子供の頃よく感じていた得体の知れない不安感が、再び訪れる。
          一体ここの子供たちは何のためにここに集まったのだろう。
          ケルー家とは何の関係があるのだろう。

           僕は混乱した気持ちを引き締めるために、もう一度幻影術に集中することにした。
          これ以上迷っているわけにはいかない。
          僕の目標はあくまでも両親の仇を取ることだから。

          悪夢を見た。
          夢の中での僕は、あの日の自分の家にいた。
          家にいた全ての人が殺されたあの日だった。

          僕は母親の部屋にもう一度入った。
          部屋の中は未だに真っ赤な血の海になっていた。
          足首が沈むほどの真っ赤な血の海。
          その下から、巨大な泡のような何かがゆっくりと噴き上がる。

          「無念だ……ヘギー。」

          あれはあの日、命を落とした数人の使用人と両親だった。
          血まみれになった死人たち。彼らはゆっくりと顔を上げ、僕を見つめて近づいてきた。

          「晴らしておくれ……仇を……。」
          「我々の無念の死を……」

          死者たちは僕の身体にしがみつき、哀願した。
          血だまりの中に僕を引きずりこもうとする気がした。
          僕は彼らに、必ずエイルの奴に復讐すると言った。
          死んだ母親を掴んで、必ず仇を討つと叫んだ。
          その瞬間、母親の顔はアジェイスの顔に突然切り変わった。

          「いえ、あなたにはできない、ヘギーはエイルの家族だから。」

           その言葉に僕は心臓が締め付けられるような痛みを感じた。
          死んだアジェイスの瞳が僕を血だまりの中に引き寄せた。

          才能だったのか、僕の幻影術の腕はすぐ上達した。
          いつの間にか僕は、エイルよりも幻影術を上手く扱えるようになっていた。
          今日の対決も奴がズルして急に体術で反撃してこなかったら、きっと僕の勝ちだったんだろう。

          「ヘギー、俺を殺した後は守るために生きろ。」

          対決が終わった後、エイルはまた説教をし始めた。
          僕は奴がそんなことを言う度に、かっとして抑えきれない怒りを我慢できなかった。

          「憎悪は一時的な力だ。目標を失うと一瞬で消える。誰かの助けになる力を学べ、ヘギー。 そうしたら、最後まで道を失わずに済む。」

          僕の人生をめちゃくちゃにしたくせに、今更偉そうに話す奴を見ることが疎ましかった。

          「笑わせるな!」

          僕はエイルの方に向かって叫んだ。全く馬鹿げた話だ。
          奴のせいで一人ぼっちになった僕に、守りたいものなんかあるわけない。

           

           

           

          時間が経つにつれ、僕の復讐への決心は揺らぎ始めた。
          エイルは僕の家族を殺した人殺しだ。
          その事実は変わらない。
          しかしエイルはその事実と同時に、ここにいる子供たちの家族だった。

          僕がエイルを殺したら、子供たちは僕と同じく家族を失うことになる。
          僕はこの家の人々の家族を殺したいのだろうか?
          その疑問が僕の戸惑いの始まりだった。

          「お前…治療魔法を知っていると言ったな?僕に治療魔法を教えろ。殺すのはその後だ。」

          訓練が終わった後、僕はエイルにそう言った。
          いつかエイルがミシェルに使用した治療魔法を思い出したのだ。
          その能力があれば、万が一自分がエイルに怪我を負わせても使えるだろう。
          殺すか生かすかはまだ判断がつかないから、二つの力をどちらも学んでおけばいいと思った。
          決して、この間のエイルの助言を受け入れたわけじゃない。

          僕の言葉を聞いてエイルはニヤッと笑いながら近づいてきた。

          「頼んでいるのに、その言い草はなんだ?丁寧に、教えてくださいって言わなきゃな!」

          エイルは後ろから僕の首に腕を巻き、首を軽く締めながら もう一度頼んでみろと脅かし始めた。
          結局、僕がもう一度頼むまで奴は僕の首を絞めたまま放してくれなかった。
          やっぱりこいつに頼むんじゃなかったと思った。

          夢から覚めた後も悪夢は続いた。
          僕にはだんだん現実にまで両親と死んでいるアジェイスの姿をした幻影が見え始めた。
          きっとこうして狂っていくのだろう。
          両親は復讐を急いでと哀願し、アジェイスは一緒に家族になろうと誘ってきた。
          皆が僕を恨みがましい視線で見つめていた。

          僕は幻影を避け、全てのことに目をそらして逃げていた。
          両親の幻影を見る度に幻影術の訓練に集中し、アジェイスの幻影を見る度にエイルから学んだ治療魔法を研究した。

          いざ、その時がきたら決断できると思っていた。
          僕はそうやって何もかも、決断を避けながら現状維持という殻の中に隠れてしまった。

          そしてある日、僕は一人の男の幻影を見た。
          その男は、僕と同じ顔をした幻影だった。
          幻影の登場と共に、ケルー家の刻印からズキズキする痛みを感じた。
          自分の姿をした幻影が僕に手を差し伸べた。

          僕は幻影を避け逃げた。 
          手首を刺すような痛みが止まらない。
          僕は家から離れ、当てもなく森の中をただひたすら走った。
          どんな幻影も、僕のことを見つけられないように。

          足任せに歩いていたら、いつの間にか夕方になっていた。
          僕は結局、何も決められず家の方に帰っていた。

          「ヘギー!」

          アジェイスが僕の方に向かって叫びながら走ってきた。
          彼女の後ろには一群の人たちが追っかけてきていた。
          初めて見る連中だった。

          「逃げなきゃ!ついて来て!」

          アジェイスは必死になって走ってきては、僕の手を引っ張った。
          僕はわけも分からないまま、彼女の手に引かれて森と繋がっている山の稜線を走り始めた。
          追撃者たちから逃れるために、僕たちは無我夢中で山道を走った。
          追撃者たちの足音がだんだん遠くなっていった。

          「どういうこと?どうして逃げなきゃいけないのか説明してくれ!」

          走るスピードを少し落としながら僕はアジェイスに向かって質問を投げた。
          僕としてはまずは状況把握をしたい気持ちが先走っていた。

          「あれは……ケルー家の兵士たちよ。」

          その言葉に僕はアジェイスの手を振り切った。

          「何?じゃあ僕は逃げる理由がないじゃないか!僕を助けるために来たのかも…。」

          いつもとは違う真剣な彼女の眼差しが、僕の目を直視していた。

          「…エイルのために言わないでおこうとしたけど、この状況だから言うわ。」

          アジェイスは首に巻いた包帯を外し始めた。
          普段、一度も外したことがない包帯だった。
          そして見えてきた彼女の首には僕と同じ刻印があった。
          ケルー家の刻印。

          「ええ。わたしもケルー家の子供。ここにいる子供たちのほとんどが刻印を持っている。」

          そして、彼女はためらいながら話を切り出した。

          「なぜなら、この刻印は魔物を植えたという印だから。」

          アジェイスは真剣な眼差しで話しながら僕の手を再び引っ張り出した。
          彼女は急ぎながら話を続けた。

          アジェイスの話によると、人間の身体の中で育てられた魔物は強力な力を持つという。
          その魔物を手に入れるためにケルー家の呪術師たちは、わざと子供たちを育てると同時に、子供の身体の中の魔物も育て始めた。
          子供たちの身体に刻まれた「刻印」は家紋の刻印を意味するのではなく、呪術師たちが魔物を植え込んだという印だった。
          子供たちの体内の魔物が目覚めようとする時、それを阻止できる唯一の方法は
          ケルー家の魔法石を通じて魔力を注入することのみであった。
          偶然この事実を知ったエイルは、家紋石を盗み、子供たちを連れて家から逃げ出した。
          そして一族の目を忍んであちこちを転々としながら、一族の追跡者たちから逃れてきたと言った。

          「あなたの両親を殺した理由も、彼らがわたしたち全員を処分しようとしたからだった。そしてそこであなたを発見したの。」

          「今僕にその話を信じろっていうのか?!」

          僕の両親がケルー家の子供たちを処分しようとしていたと?
          そんなはずがない。

          僕は彼女に反論するために声を荒げた。
          その時だった。
          アジェイスの表情をこわばらせながら、視線が僕の背後へと向かった。

          気付いたらいつの間にか僕たちを追いかけてきたケルー家の兵士たちがいた。
          兵士の一人が僕の方に向かってスタッフを構えた。

          「ヘギー!危ない!!」

          その途端、 アジェイスが僕の身体をかばった。
          目には見えない魔法の力が彼女の身体を貫いた。
          身体を支えきれなくなった彼女は、地面に倒れてしまった。
          僕はアジェイスの身体を辛うじて支えていた。

          「アジェイス!」

          アジェイスの身体が激しく震え、荒い息を吐きつづけた。
          彼女の姿は、いつか見たミシェルの姿に重なって見えた。
          何とも言えない恐怖感が襲ってくる。

          「やめろ!ヘギーは大切な実験台だといったじゃないか!」

          アジェイスを襲った群れの中の一人が前に出て、スタッフを持った兵士に向かって大声で叫んでいる。
          何らかの理由で直接僕を攻撃しそうには見えなかった。
          僕はアジェイスの身体を起こして一緒に逃げ出そうとした。
          しかし、起こそうとしてもアジェイスは僕の手を押しのける。

          「…ヘギー、逃げて…わたしはもうすぐ魔物になるわ。」

          彼女が一体何を言っているのか、僕は知るすべがなかった。

          「エイルが助けてくれるまでは、発作はおさまらない。」

          彼女がなぜ、僕を押しのけているのか、理解できなかった。

          「わたしは、わたしの命をかけてでも守るわ。」

          彼女がなぜ、悲しい目をして涙を流しながら僕を見つめているか。

          「なぜならヘギーは…わたしたちの家族だから。」

          彼女の身体から巨大な刺が突き出た。
          骨を砕いて、肌を破って突き出た異形のソレはもう人間の形状ではなかった。
          アジェイスという存在そのものが毀損されるような悲惨な死だった。

          一人の男が近づき、かつてはアジェイスだった存在の身体に剣を突き刺した。
          さっき僕のことを実験体と言った男だった。
          男の剣が魔物をゆっくりと貫通していくと同時に、苦しいのだろうか魔物の刺がビクッと動いた。

          「どうして子供たちを魔物にするかわかるか?」

          彼が恐怖に満ちた僕の目を見つめながら話しはじめた。

          「育てられた宿主たちは、後で魔物になっても一族の人間を攻撃しないんだ。」

          男が一体何の話をしているのか、到底受け入れられなかった。
          そして、何もできなかった。
          目の前で起きた凄惨な出来事の恐怖に包まれ、すべての理性が麻痺したせいだろう。

          何が天才だ。
          呆然としている僕に向かって、兵士たちがゆっくりと近づいてきた。
          なにもできなかったくせに。
          その瞬間、エイルが現れ兵士たちを幻影術で僕から切り離した。
          アジェイス。
          エイルは僕に向かって何か話していた。
          ごめん……。
          しかし、僕には聞こえなかった。
          アジェイス……。
          エイルは仕方ないと言わんばかりの表情で、僕を肩に担ぎあげた。
          許してくれ、アジェイス……。
          僕を肩に背負ったエイルは、兵士たちを避けて素早く逃げ始めた。

          しばらく走り続けた。
          アジェイスの死を目にした場所からかなり遠くに来たものの、追撃は止みそうになかった。
          僕とエイル、二人の体力も限界に達していた。
          足が鉛のように重い。
          そんな中、急な坂道が現れ、僕の足はとっさに反応し切れなかった。
          バランスを失った僕は斜面を滑りながら、地面に転び落ちてしまった。

          「大丈夫か?立てるか?」

          僕は立ち上がるために力を振り絞った。
          しかし、一歩進む度に足首に激痛が走った。
          さっき転び落ちた時、足首を酷く痛めてしまったようだ。この状況で、ふんだりけったりだった。
          このままだと奴らに捕まってしまう。
          僕はそれ以上、逃げられない状況だった。

           

           

           

          エイルの表情にも明らかに緊張感が漂っていた。
          彼は僕たちが下ってきた斜面の上を見上げた。
          兵士たちにもうすぐ追い着かれるだろう。
          エイルはゆっくりと僕の方を振り向いた。

          「今から俺の話をよく聞け。」

          エイルは僕の目を見つめて、手に持っていた両刃の短剣を僕の手に握らせた。
          この時はまだ、一緒に兵士たちに立ち向かうために武器を渡してくれたと思っていた。

          「これはケルー家の家紋石だ。身に着けていれば、魔物になることを防いでくれる。」

          彼が常に付けていたネックレスを僕の首にかけてくれた。
          家紋石というお守りを僕に預けてくれたわけだ。
          それはつまり、僕1人でも逃げろという意味だった。

          「僕一人で逃げろっていうのか?」

          エイルはうなずきながら優しく笑った。

          「僕はお前を殺そうとしたんだ!なのに、どうして僕を…!」
          「お前は俺より上手くやってくれそうな気がする。」

          彼は静かに笑い、話し続けた。
          一体この男はどうしたらこんな状況で笑えるのだろう。

          「俺は守ろうとしたものをすべて失った。だから生き延びたところで意味がない。」

          彼は僕に背を向け、兵士たちの方に向き直った。

          「ヘギー、お前だけは必ず生き残ってくれ。お前はたった一人残った俺の家族なんだからな、わかったな?」

          エイルはその言葉だけを残し、追跡者たちに向かって飛びかかった。
          兵士たちは彼に立ち向かい剣を振り回した。
          しかし、彼は幻影術を使ってまるで一匹の猛獣のように兵士たちを斬っていった。
          複数の幻影剣が空中で血煙を立てていた。
          しかし、追跡者たちはエイルに家紋石がないことに気付いて、魔力を注入し始めた。

          エイルはアジェイスと同じ最期を迎えた。
          僕は再び、大切な存在が魔物になり、粉々に壊れる光景をただ見ている事しかできなかった。

          僕に似ている幻影が再び現れる。
          全部僕のせいだ…。
          幻影は僕が二人を救えるよう、警告してくれていたのだ。
          僕の覚悟が足りなかったせいだ。

          台無しにしたのは僕だ。

           兵士たちの手が僕のほうに近づく。
          その手は僕から家族を奪い去った者の手だった。

          夜明けの頃だった。
          頭が重く、意識が朦朧としていた。
          まるで、終わらない悪夢の中にいるような気分だった。

          僕はやっと目を開けて周辺を見回った。
          周りにはケルー家の兵士たちの死体が転がっている。
          朦朧とした意識の中で、彼らが僕とエイルを追いかけていたことを思い出す。
          夢じゃなかった。
          彼らを避けて逃げた記憶も二人の死も。
          そしてこの首に残された家紋石のネックレスまで。
          夢じゃない。

          エイルも……アジェイスも……子供たちもみんな……。

          『ヘギー、俺を殺した後は、守るために生きろ。』

          エイルの粋がる声が頭の中で鳴り響く。
          悲しみに胸が締め付けられる。
          頬をつたって流れた雫がボロボロとこぼれ出す。

          守るために生きろって。
          ひどいじゃないか。
          僕にどうしろっていうんだ。
          守りたいと思っていたものを見つけた途端、全部失ってしまったのに…

          素直に言うんだった
          僕も、あなたたちの家族になりたかったと。

           

           

           

          時が流れ、
          ヘギーは内面の幻影と向き合うことに慣れてきた。

          エイルが遺してくれた両刃の短剣も今やまるで身体の一部のように感じる。
          ヘギーは自分を振り返り自嘲的に笑った。

          あの日の自分が今のような心構えだったなら、という考えが浮かび上がったのだ。

          いや、今は止めよう。
          今は目の前に、すぐさまやるべきことがある。
          あの日以来、ヘギーを狙った追っ手が絶えなかった。
          それはつまり、まだ子供たちの身体に魔物を植え、育て、戦いで利得を得る邪悪な連中が健在であるということだろう。

          見て見ぬふりをするわけにはいかない。
          復讐のためでも、生き残るためでもなく、ただ間違ったことを正すためにヘギーは幻影の剣を使うことにした。

          ケルー家の邸宅。
          今日はここで一族の中心的な人物たちが集まるという情報を得た。
          二度とないチャンスだ。

          邸宅の扉を開けてヘギーが中へ入る。
          ケルー家の貴族たちは驚愕に満ちた目でヘギーの方を振り向いた。
          彼らの恐怖に満ちた瞳に、無数の幻影の刃が映った。

          それはヘギーが彼らに捧げる鎮魂曲であった。
          悪人たちの手によって無残に命を奪われた人々の魂を弔うための鎮魂曲。

          魂のレクイエム。

          あれから1年が経った。
          ヘギーは目的を定めず世界を旅し、やがてある村に辿り着いた。
          そこは小さいものの、蜘蛛の守護神やイチゴの名産で冒険者たちの間ではかなり名の知れた村だった。

          「早く鐘塔の前に集まれ!」

          ヘギーが村の中に立ち入った瞬間、傭兵団の事務所の周辺に集合の鐘音が鳴り、傭兵団員たちが走り出す音が村中に響いた。
          傭兵団の出征の命令が下されたようだった。

          「新入り!何ここでぼーっとしている!早く鐘塔に集まれ!」

          鐘塔に向かう傭兵の中の一人が、ヘギーを誰かと勘違いしたのか、話しかけてきた。
          ヘギーは慌てたあまり、手を横に振りながら自分は団員ではないと説明した。
          しかし先を急ぐ傭兵には聞こえなかったようだ。
          傭兵は独り言を話すかのように話し続けた。

          「神物の暴走とは、不吉だ。このままではコレンも危険かもしれない。我々が命を捧げてでも守らなければならない!」

          傭兵の最後の一言は、彼女が遺した最後の言葉を思い出させる、

          『わたしは、わたしの命をかけてでも守るわ。』

          ヘギーは傭兵たちについて、鐘塔へ向かった。

           

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          「ヘギー キャラクターストーリー」より

           

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          リン :: キャラクターストーリー

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            鏡を見ながら髪を整えているお姉ちゃんは、眩しいほど美しかった。
            お姉ちゃんはかんざしを差しながら忙しく動かしていた手を止め、私に聞いた。

            「どう?」
            「うん、お姉ちゃんが世界で1番きれい!」

            お姉ちゃんは私に微笑みかけた。お姉ちゃんの白い肌が朝の日差しに照らされ、輝いていた。

            小さい頃から身体が弱かった私は、あまり長く生きられないと言われていた。
            それを聞いたお母さんは私に槍術を習いに行かせた。
            それ以来、私は身体も丈夫になり、俗に言うやんちゃ娘になった。
            私がこうなってしまったのは自分のせいだとため息をつきながらお母さんはよく言っていた。

            お姉ちゃんはよく、私の槍術の練習を見に来てくれた。
            私が教わっていた槍術の先生は当時騎兵団長だった人で、先生とは言ったものの
            お姉ちゃんより1〜2歳上の、まだ若い青年だった。

            私は、お姉ちゃんが先生を見つめる嬉しそうな顔が好きだった。先生がお姉ちゃんに向ける笑顔も好きだった。
            二人は本当にお似合いだった。

            だから私は、2人が結ばれることを願っていた。
            そして、きっとそうなると信じていた。

             

             

            結婚する日を迎えたお姉ちゃんは、
            涙が枯れるほど何度も泣いていた。

            「お姉ちゃん、このまま逃げちゃおうよ!」

            それを聞いたお姉ちゃんは力なく首を横に振った。

            「…時には、仕方ないこともあるのよ。」

            お姉ちゃんが嫁いだ先は名ばかりのこの王国とは違って、
            何十倍も広い領土と
            何十倍も強い軍事力を持っているそうだった。

            それでなのか…。
            花婿は私より二回りも三回りも年上だった。

            絹の礼服を身にまとい、すべての準備を終えたお姉ちゃんは
            発つ前に私に向かって微笑んでくれた。

            どうして笑っているの?お姉ちゃん。
            どうして…。

             


            お姉ちゃんがこの国に戻って来たのは、それから数年が経ってからだった。
            肺病にかかって戻ってきたお姉ちゃんの頬はこけていた。

            その数日後…お姉ちゃんは息を引き取った…。

            最後までお姉ちゃんの手を握ってくれていた槍術の先生は、お姉ちゃんのお葬式には来なかった。
            その日、先生を見かけた人たちの話によると、彼は城の裏にある丘に突っ立っていつまでも東の方を見つめていたそうだ。

            そしてその日の夜、先生は姿を消した。

            使者が来る前から噂話は広まった。

            ある人は許しを請えば大丈夫だと、またある人は戦争が起きるかもしれないと言った。
            若い槍騎兵一人が起こしたことだから、彼さえ処刑すれば大丈夫だとも言った。
            また貢物を捧げなければならないという噂も広まった。

            多くの噂が飛び交ったが、お母さんは何も言わなかった。
            後日、東から使者が来るまで。

            お母さんと向かい合った使者は、
            顔と同じく陰湿な声で延々と話し続けた。

            色んな話が飛び交った。

            その場に同席できなかった私は話の詳細までは知ることはできなかったが、
            時々壁の向こうから聞こえる声は、
            単独行動とはいえ、この国の騎兵団長が我が王の暗殺を企てたのは、明らかな反逆行為だと言った。
            長く生きられない、病弱な娘を嫁がせた責任を取れという声だった。
            しかし、心の広い王が、違う娘を嫁がせるなら特別に許してやるという話もあった。

            さもないと恐ろしいことが起きると…。

            その日、お母さんは私たちを残して亡くなったお父さんのことが憎いと初めて弱音をこぼした。

            黒雲が垂れ込めて今にも雨が降りそうな日だった。
            その日の夜、ナイフを握りしめたお母さんが私の部屋に入ってきた。

             


            お母さんによって切られた私の髪の毛が床に落ちた瞬間、

            「この国の姫だった私の娘は、今ここで死んだのよ。
            みんながここから避難する時、一緒にここを出なさい。」

            お母さんはお別れの言葉もなく、そう言って部屋を出た。

            しかし、部屋を出る時に言ったお母さんの言葉は覚えている。

            「槍術を習わせておいて…よかった。」

            その後、お母さんは城の中にいた人たちを避難させた。

            王国の最後の民たちを…。

            短くなった髪を触りながら、私は彼らと一緒に城を出た。
            東から攻めてきた兵士たちの喚声が遠くから聞こえてきた…。

             

            短くなった髪が、また元の長さに戻った頃、私は覚悟した。

            強くならなければ。
            そして、人たちを集めなければならない。

            私の軍隊を取り戻すために。
            私の王国を取り戻すために。

            私の名前はリン。
            失われた王国、柔花国(じゅうかこく)の姫だ。

             

             

             

            パチパチと焚き火の音がする。

            焚き火に乾いた薪が燃えて火花が散った。
            男は横に集めておいた木の枝を焚き火に投げながら尋ねた。

            「君みたいなチビがなぜこんなところにいるんだ?」
            「おじさんこそ、何でここにいるの?」
            「おじさんだと?僕はまだ二十歳なんだよ。お兄ちゃんって呼びなさい。」
            「ふん、私もチビじゃないけど?」
            「生意気なチビだな!」
            「チビじゃないってば!」
            「はいはい。では、お嬢さん。
            何で君みたいなお嬢さんが、魔族がうじゃうじゃいるこんな場所に一人でいるんだ?
            ここは君みたいなチビが…それに女の子がいられるような場所じゃないよ。」
            「ふん、人の話が聞きたいならまず自分のことを話すのが礼儀っていうものじゃないの?」
            「面白いチビだな!」
            「チビじゃないってば、もう!」
            「ハハッ、わかったわかった。う〜ん…僕はね、王国騎士団に入ろうと思って旅をしてるんだよ。"
            「…王国騎士団?」
            「うん。」
            …じゃあ、ロチェストに行けばいいんじゃないの?」
            「そりゃ行ったさ。でも、僕みたいな中途半端な奴が入れるところじゃなかった。」
            「…で?」
            「それで調べたら、コレンにカルブラム傭兵団というところがあるみたいなんだ。
            傭兵団で功を積めばロチェストに行けるらしいから…そこに行こうと思ってな。」
            「…コレンか…。」
            「さて、僕の話はこれくらいにして…次は君の番だぞ。」
            「…私は強い人を探しているの。」
            「強い人?なぜ?」
            「取り戻したいものがあって…ね。」
            「そう?じゃあ、僕はどうだ?こう見えても僕もそれなりに強いぞ。」

            男の言葉にリンはぷすっと笑って席をはたいて立ち上がった。

            「…私、もう行くね。」
            「え?ああ、うん。気をつけろよ。」
            「ありがとう、お兄ちゃん。」
            「ハハハッ、ありがとうな。」

            「そうだ。」

            荷物をまとめて歩き出した少女は立ち止まって男に聞いた。

            「私の名前はリンって言うの。お兄ちゃんの名前は?」
            「リン?それが君の名前なんだね。僕はリシタ。」
            「…それじゃ、リシタお兄ちゃん、またね。お兄ちゃんが本当に強いなら、
            きっとまたどこかで会えるはずだよね?」
            「ハハハ、そうだな。また会おう。」

            リシタは笑いながら、リンに手を振った。

            バサバサッ。

            夜が明け始めた森の中に、朝を迎えた鳥たちの羽ばたく音が響いた。

             

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            「リン キャラクターストーリー」より

             

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            ハルク :: キャラクターストーリー

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              ハルクにとって最初の記憶は、仔馬の鳴き声が響き渡り、星たちが降ってきそうな夜空だった。

              たぶんおくるみに包まれて鞍袋に入れられていたんだと思う。
              鞍袋の隙間からは天の川が流れる夜空が広がっていた。
              おくるみの中は暖かかったが、外の空気はとても冷たくて自分も知らない間に泣きじゃくっていたのかもしれない。
              ひそひそ話が終わると、いよいよ手が袋の中に入ってきた。
              大きな手は赤ちゃんをそっと出して胸に抱いて優しくあやした。
              光は微かな焚火だけだったので男の顔は見えなかった。
              大きな三日月が果てしなく広がる平原の地平線にかかっていたことだけを覚えている。
              おそらくその胸の中でハルクはすぐに眠ったのだろう。

              次の記憶からハルクは、すでに独りになっていた。

              戦場にはハルク以外にも多くの孤児がいたが、その中でハルクは目立っていた。
              黒髪に黄色い肌を持つみんなと容姿が違ったからだ。
              人々は悪魔の子だと噂し、不吉だとハルクを避けた。
              そんなことをしなくても戦場の孤児は、人間扱いすらしてもらえない存在だった。
              戦場の苦しい環境の中で孤児たちはドブネズミのようにしぶとく生き残った。
              人々の雑用を請け負い、誰かの食べ残しを盗み食いした。
              ハルクは他の孤児たちと一緒に毎日重い鍋を持って戦場の配給所を何ヵ所もはしごした。
              丸一日をそうやって走り回ると薄くて粗いお粥一杯がもらえた。
              育ち盛りの子にはあまりにも足りない量だった。
              しかし、それすら運悪く手に入れられないことも多々あった。
              そのうちハルクは戦場で一番険しいところを選んで行き来するようになった。
              それ以外の時間はいつも荒々しい傭兵たちの間を徘徊しながら食べカスを拾って食べた。
              配給がままならない時は食べカスも手に入らない。そんな時は水で空腹を満たし、汚い寝床で体を丸くして眠りについた。

              たまにハルクは冬の日の夜、自分をあやしていた人が突然訪ねてきて、「息子よ、父さんが戻ってきたぞ!」と叫ぶ夢を見た。
              自分と似た、異国の姿をした男が。
              しかしそれはあくまでも夢。目を覚ますと同時に深くて暗い空腹感が全身を襲う。

              間もなくハルクは罠を仕掛けてネズミやヘビのような小動物を捕まえる方法を独習した。
              手際が良いのか雑な罠を仕掛けても獲物は簡単に獲れた。
              ハルクは罠づくりに慣れると鳥の罠を作った。スズメをはじめ運が良い時はカラスのような大きい鳥も捕まえることができた。
              しかし、いくら捕まえても10に5〜6は自分より体が大きい子たちに奪われていた。
              そのせいでハルクの空腹が満たされることはなかった。

               

              二日ほど何も食べられず、やっとコマドリ1羽を捕まえた時だった。
              死んだコマドリを懐に入れて焚火の材料を拾っていたハルクの首を誰かが後ろから掴んできた。
              荒々しい手によってハルクは地面に投げ飛ばされた。
              顔を上げるとそこには意地悪な笑みを浮かべた男の子たちがいた。
              そばかすとニキビが顔にいっぱいあることから「あばたづら」と呼ばれる、体の大きいガキ大将とその仲間だった。
              ハルクはこれまで何度も彼らに食べ物を奪われていた。
              彼らは後ずさりするハルクの腕を掴み、懐を漁り始めた。
              ハルクが投げ飛ばされた時にぐちゃぐちゃになってしまったコマドリが出てきた。
              すると腹を立てた誰かがコマドリを地面に叩きつけて足で踏みにじった。

              怒りで目の前が真っ暗になった。
              どこからそんな力が出たのか、腕を掴んでいた子たちを振り払って、あばたづらのガキ大将に飛びかかり拳を食らわした。
              油断していたガキ大将は一発食らうと同時に倒れ込んだ。
              残念なことに、その日彼らを全員倒したという武勇伝は生まれなかった。

              すぐに気が付いたガキ大将の仲間たちによってハルクはボコボコにされた。
              だが、それから徐々に獲物を奪わる回数が減っていった。
              しつこく抵抗して立ち向かってくるハルクから獲物を奪うより、別の相手を探した方が楽だと判断したガキ大将とその仲間は、だんだんハルクにちょっかいを出さなくなった。

              小さい頃があったのか疑わしいほど、ハルクは見る見るうちに大きく成長した。
              視線が少し高くなったと感じた時はみんなの中で一番体が大きくなっていた。
              ある日、自分をいじめていたあばたづらのガキ大将を一発で倒した時、ハルクは自分が強くなったことに気付いた。

              13〜4歳になると大人の間に交じっても、子供だと気づかれなくなるくらいに成長した。

              子供のじゃれ合いに飽きてきたハルクは、大人たちと付き合い始めた。
              傭兵たちの雑用をこなしながら彼らの話を聞いたり、鍛冶屋に閉じこもって夜が明けるまで剣が加工されるのを眺めたりした。

               


              その中でも中年の鍛冶屋は、ハルクをとても可愛がってくれた。
              彼は村のみんなと容姿が違うためのけ者扱いされていたハルクを気にかけていた。
              好奇心旺盛で手際のいいハルクが見様見真似で頑張る姿が気に入った様子だった。

              ある日、鍛冶屋が自分の徒弟にならないかと勧めてくれたとき、ハルクは飛び上がるほど喜んだ。
              その頃のハルクは鍛冶屋が自分の天職だと思っていた。
              徒弟からはじめ正式な鍛冶屋となり、いずれは自分の店をと考えていた。
              中年の鍛冶屋は口癖のように「いつかはこの鍛冶屋をお前に継がせる」と言っていた。

              いつもと変わらない平凡な毎日だった。
              鍛冶屋でたちの悪い傭兵に絡まれるまでは。

              修理すら困難なボロボロの剣だった。
              刀身にはヒビが入っていて安易に触れると折れてしまいそうだったし、質の悪い鉄で作られているため鉄を溶かして剣を作り直すのも無理そうだった。
              鍛冶屋は首を横に振り、新しく購入した方がいいと言って断った。
              しかし傭兵は武器を売るための口実だと言いながら、鍛冶屋の前に立って大声でわめき立てた。
              これでは商売にならないと舌を鳴らす鍛冶屋を見て、ハルクは自分が奴を追い出してくると打って出た。
              しかし鍛冶屋は彼を引き止めた。
              あれくらい自分で解決できるのに。
              その頃のハルクは鍛冶屋を訪れる客に傭兵や武士と間違われるほどの風貌を持っていた。
              あんなまぬけな傭兵くらい容易い相手だった。
              しかし鍛冶屋は何度も大人しくするようハルクに言い聞かせ、鍛冶屋を閉めようとした。

              その時だった。
              傭兵は逃げるのかと言いながら、鍛冶屋の胸ぐらを掴んで地面に投げつけた。
              見るに耐えられなかったハルクは傭兵に飛びかかった。
              傭兵が油断していたのもあったが、それにしても弱かった。
              気が済むまで傭兵を殴り続けた後、意気揚々と自分を介護するハルクを見て、鍛冶屋は呆れたという顔をして見せた。

              翌朝、
              溶鉱炉に入れる石炭が底をつき、鍛冶屋はハルクにお使いを頼んだ。
              石炭のお店は鍛冶屋から結構距離があったため、ハルクが石炭を入れた荷車を引いて戻ってきたのは正午過ぎだった。

              鍛冶屋の前にやけに大勢の人が集まっていた。
              ハルクは人々をかき分けて進みながら、人の店の前で全く迷惑だなと思った。
              鍛冶屋にたどり着いた時、ハルクはその場に凍り付いた。

              鍛冶屋はめちゃくちゃに荒らされていた。
              溶鉱炉の火は消えていて、壁にかかっていた器具は地面に転がっていた。
              崩れ落ちそうな柱もあった。
              屋内を探したが、鍛冶屋の姿は見えなかった。
              パニック状態になったハルクは、周辺にいる野次馬に事情を聴いた。
              するとそのうちの誰かが、突然傭兵団が来て鍛冶屋をめちゃくちゃにしたと言った。ハルクは彼に鍛冶屋の行方を尋ねた。幸いにも命に別状はなく、医院に運ばれたらしい。ハルクはすぐに医院へ向かった。

              鍛冶屋は動けないくらいのひどい怪我を負っていた。
              怒りを抑えきれず復讐してやると怒鳴るハルクを、鍛冶屋はほほ笑みながら引きとめた。
              看護してくれる人が必要だと言われ、ハルクは我慢した。
              こうなったのは全部自分のせいだと思った。

               


              間もなくして冬が訪れた。
              異例の酷寒だった。
              徐々に体調を回復していた鍛冶屋は肺炎を患ってしまった。

              ある日、鍛冶屋は遠い海の向こうにハルクとよく似た人たちが暮らしていると聞いたから、もし自分が死んだらそこへ行けと言った。
              ちょうど肺炎によく効くというお茶を入れていたハルクは、死ぬとか縁起の悪いことは言わないでくれと言って鍛冶屋の言ったことは気に留めなかった。

              冬が終わる頃、ハルクは訪れる者一人いない寂しいお葬式を終えた。
              ハルクは魂が抜けたような顔で廃墟になった鍛冶屋の中に座っていた。
              壊れてからしばらく使っていなかったせいで、鍛冶屋は埃と蜘蛛の巣だらけだった。
              これからどうすればいいのだろう。
              そう考えていた時、ふと鍛冶屋で唯一壊されていない剣が目に入った。
              鍛冶屋が趣味で作っていた、人よりも大きい大剣だった。

              ハルクは何かに取り憑かれたように大剣を両手で握った。不思議なことに、自然とその剣は手に馴染んだ。
              まるでハルクのために作られたかのように。

              もうハルクを止めてくれる人は誰もいない。

              ハルクはまっすぐ傭兵団のいる宿屋に向かった。
              自分を阻止する警備兵たちをハルクは一瞬で斬り付けた。
              内臓が飛び出るほど深い傷を負った彼らは地面に崩れ落ちた。
              全身に生ぬるい返り血を浴びた。
              突然血まみれの男が現れたことに動揺した傭兵たちは、その場に茫然と立ち尽くした。
              ハルクが大剣を一振りする度に、三、四人が一度に倒れていった。
              気を取り戻した傭兵たちは大声で叫びながら、ハルクに向かって一斉に飛びかかった。
              ハルクは容赦なく、彼らも斬っていった。
              何度も。何度も。誰も飛びかかってこなくなる時まで。

              突然目が覚めた。
              返り血が乾いて瞼がざらざらしている。
              一瞬、ハルクは自分がどこにいるのか分からなかった。

              足元を見下ろした。
              血の小川がゆっくり流れていた。
              周辺を見渡した。
              壊れた建物とたくさんの死体が見えた。
              空を見上げた。
              雲ひとつない晴れた空が見えた。

              扉の前にはたくさんの野次馬がいた。
              しかし、ふらふらと出ていくハルクを阻止する者はいなかった。

              逆にお互いを押し合ってハルクに道を開けてくれた。
              悪魔だの化け物だの周りはヒソヒソ声で騒がしかったが、ハルクには何も聞こえてこなかった。

              ふと顔をあげた。
              見慣れた男が目の前に立っていた。
              しかし彼のことが思い出せなかったハルクは、手を上げて頭を掻こうとした。
              すると男は悲鳴を上げながら腰を抜かした。
              股の間から黄色い液体を垂れ流しながら。
              その姿を見てハルクは彼が誰なのかを思い出した。
              以前、鍛冶屋で乱暴を働いていた男だった。
              ほんとちょっとだけ大剣の握った手に力を入れた。
              男は意味不明な言葉をつぶやいた。
              耳が痛かった。
              ハルクは男の胸ぐらを掴み、そのまま思いっきり投げつけた。
              じたばたしていた男の体がおもちゃみたいに露店へと吹き飛んだ。

              やっと静かになった。
              ものすごくいい気分になった。
              ハルクは思わず声を出してゲラゲラと笑った。
              一瞬周りがざわついたがすぐに静まった。
              ハルクが動揺する野次馬たち一人ひとりに目を合わせると、彼らは顔をうずめ慌ててその場から立ち去っていった。

               


              もっと早くこうするべきだったのだ。
              こんな風になったのは、自分には合わない生活と知りながら、平和に暮らそうとしたからだ。

              ハルクは大剣を持ち上げ、ゆっくり足を進めた。
              すべてが体に合ったかのように、足取りが軽くなった。

              これを機にハルクは傭兵として生きていくことにする。
              ハルクが傭兵団を襲ったことはあっという間に噂になった。
              「ある色目人が大剣を振り回すと突風が巻き起こり、一瞬にして傭兵団を全滅させた。」という噂を知らない人はいなかった。
              噂のおかげで傭兵として働くのは難しくなかった。
              傭兵隊に所属してみたり、放浪武士をやってみたりして気ままに過ごしていた。

              そうして傭兵としての日々を過ごし、5年くらいたっただろうか。世間では「大剣のハルク」と言えば知らぬ者はいないくらいになった。
              たまに鍛冶屋の血が騒ぐ時は、近くの鍛冶屋に駆け込んで何日も引きこもって作業した。
              鍛冶屋に関する記憶は結構薄れてしまったが、彼が教えてくれた技術はすべて体が覚えていた。
              たまに新しい装備を焼入れ処理する時、炊き上がる蒸気の中で鍛冶屋の幻影のようなものを見ることがあった。
              その幻影は何かをささやいていたが、いくら耳を澄ましてもハルクには何も聞こえなかった。

              ある日、平原の境目にある酒場で、一人で飲んでいた時だった。
              長い遠征から帰って来たばかりで疲れていたハルクは、ここでしばらく休もうと思っていた。
              遊牧民族の村が点在するだけの広い平原はどこか懐かしく、昔のことを思い出していたハルクは少し気が緩んでいた。
              だからみすぼらしい恰好をした老人に酒をせがまれた時も、快く一杯おごってやった。

              馬の乳を発酵させて作るこの地方の酒は濁っていて酸っぱい匂いがした。
              老人はお酒が入ったグラスを大事そうに持って、お酒をちょびちょび飲んでいた。
              どういう流れで話し始めたのかは覚えていない。
              普段から自分の話はあまりしないハルクだったが、妙なことにこの老人には何でも話せた。
              会話の終わりにハルクが自分の名を口にした時だった。
              老人が黄色い歯を見せながら笑った。

              昔つるんでいた仲間にハルクみたいな顔立ちをした男が
              似たような名前のガキを連れていたと。

              「そのガキが無事に生きているとしたら、おめぇより少し若い青年になっているだろうな。」

              ハルクは固まってしまった。
              いつも周りから実際の年齢よりも上に見られるからだ。
              そして無意識に彼をじっと見つめた。
              もしかしたら、ひょっとしたら、何か思い出してくれるかもしれない。

              「その人はどこへ行ったか知ってますか?」
              「戦場でガキを見失ったらしく、自分が来た場所に戻るって行っちまったぜ。無事戻ったかどうかは知らんけどな。」

              会話はそこで終わった。
              酒場から出たハルクは歯を強く噛みしめながら鍛冶屋へと向かった。そして心を落ち着かせるためにしばらく鍛冶屋に引きこもった。
              ハルクは炊き上がる蒸気の中から再び亡くなった鍛冶屋の幻影を見た。

              幻影はささやいた。

              『ハルク、遠い海の向こうに…』

              鍛冶屋と老人の言葉が頭に浮かんだ。

               


              ハルクはいつの間にか馬に乗って走っていた。
              寝る時間を除き休まず走ったが、海に辿り着くまで1か月以上もの時間がかかった。
              大陸はとてつもなく広かった。

              港に到着した時、ハルクは生まれて初めて目にする海に圧倒された。
              まっすぐにハルクは船着き場に駆け込んだ。
              自分と似た人たちがいる場所に行く切符をくれと、大声をあげるハルクをちらっと見た切符売りの人は、ためらうことなく切符をくれた。
              ハルクは慌てた。

              自分に似た人を見たことがあるかと聞くハルクを見た切符売りの人は、当たり前だという反応を見せた。

              ハルクはゆっくり瞬きをした。

              目的地までは、船でも数ヶ月もの月日がかかると言われた。
              ハルクはデッキの手すりに寄りかかったまま、果てしなく続く海を眺めていた。
              ある瞬間、自分の未来が果てしないほどの大きさに変わり、ハルクを襲ってきた。

              胸がわくわくしてきた。

               

              マビノギ英雄伝公式サイト

              「ハルク キャラクターストーリー」より

               

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              アリシャ : : キャラクターストーリー

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                我らの女神モリアンが存在する証が巫女だとしたら
                異端が存在する証は魔女だ。
                それが、我らが魔女を始末しなければならない最初の理由だ。

                男の剣がアリシャの胸を突き刺した。

                予想外の攻撃だった。何か怪しいと感じた時、剣先はすでに心臓に触れていた。剣に刺されたくらいで動揺している訳ではない。肉体の負傷などすぐに治癒できる。問題は魔法だった。胸の奥に冷気を帯びたオーラが入ってきた。男の剣にはこれまで感じたことのない古代ルーン魔法が付与されていた。封印のルーンだった。ルーン魔法はまるで猛毒のように体の隅々まで浸透し、魂さえも呑み込もうとしていた。これでもう終わりなのだろうか…。こんなあっけなく終わってしまうのか?もしそうだとしたら……。最後のもがきで男を道連れにするまでだ。

                アリシャの体からとてつもない量のマナがあふれ出た。

                たくさんの記憶が波のように押し寄せてきた。
                過去と現在が混ざった記憶の波が、浮標のような彼女の意識を呑み込んでいった。
                彼女は波に呑まれ、時という歴史をさかのぼり、最初の記憶にたどり着いた。

                そして、すべての記憶が徐々に消えていった。

                雨の日だった。

                「この身の程知らずが!」

                後見人のいない少女が外から子犬を拾ってきたことで、孤児院は大騒ぎになっていた。
                子犬は目もまともに開けることができず、かろうじて呼吸していた。
                誰が見ても危険な状態なのが分かるほど弱っていた。
                しかし、孤児院の院長や教師たちはそんなこと気にも留めなかった。
                むしろ、少女に向けて侮辱的な言葉を並べていた。

                だが、少女は瞬きひとつしなかった。
                子犬に飲ませるためのミルクを堂々と要求していた。

                「早く外に捨ててきなさい。さもないとあんたも追い出すわよ!」

                怒りを抑えきれなかった孤児院の院長は怒鳴り出した。
                ところが、少女は怯まなかった。
                少女は怒鳴り散らす院長に背を向け、子犬を抱きかかえたまま孤児院から出てきた。

                だが、生まれてからずっと孤児院で暮らしてきた彼女に訪れる場所などなかった。
                村の中を徘徊していた彼女は村の外につながる小道を見つけた。
                しばらく誰も通っていないような道を辿ると、村の全景が見渡せる小さな丘が出てきた。
                丘の上には捨てられた神殿があった。
                少女は神殿でしばらく雨宿りをすることにした。

                1着しかなかった洋服はずぶ濡れになり、時間が経つにつれて寒気を感じるようになった。
                寒気を感じるたびに少女は胸の中にいる子犬を優しく抱き込んだ。

                「なんとかなるよ、きっと!」

                子犬に微笑みかけたあと、少女は顔を上げて村の全景を見ながら考えた。
                黒い雲が吐き出すたくさんの雨粒が村の上に落ちている。
                彼女は夜中に孤児院へ忍び込んで食べ物を調達することにした。

                少女は突然すべての光景が遠い場所にあうように感じた。
                まるで魂が身体から抜けたような身軽さを感じるとともに意識がはっきりしてくる。そして体は動かない。
                またあの瞬間が来たと思った。

                彼女はまれに、時が止まる瞬間を見ることができた。 
                風が止み、世界中が静けさに包まれる瞬間。草花や木の葉も微動だにしない瞬間。
                広漠たる空の下、雨粒が宙に浮いた瞬間だった。
                アリシャはこの神秘的な瞬間が好きだった。

                遠くから雨音がだんだん近付いてくると、永遠に続きそうな沈黙は破れた。
                時間が再び流れ出したのだ。 

                「今のあんたも見た?」

                少女は好奇心に満ちた表情で子犬に聞いた。
                子犬は意味が分からないと言わんばかりに少女の胸元へ顔をうずめた。

                「面白いお嬢さんだな。」

                少女の背後から誰かが話しかけてきた。
                人の気配がなかった捨てられた神殿の中から、一人の男が出てきた。
                足首までの長いローブを身にまとい、眼鏡をかけた男性は、学者のような雰囲気を醸し出していた。
                年寄りでもないのに白髪で、髪の毛はひどく絡まっていた。

                男は少女に近づき、自身が身にまとっていたローブを彼女の肩にかけてあげた。

                「名前は何だい?」
                「アリシャ。おじさんは?」

                幼い少女、アリシャは男の質問に堂々と答えた。 
                おじさんと言われた男は声をたてて笑った
                彼は「シェーン」と名乗った。
                シェーンはこんな場所で何をしているのかとアリシャに尋ねてきた。
                この丘はいつ魔族が出没してもおかしくない危険な場所だったからだ。
                アリシャは抱きかかえた子犬を見せて事情を説明した。

                事情を聞いたシェーンは子犬をじっと見つめては懐から魔法のスタッフを取り出した。
                すると、スタッフの先端はほのかな光りを放ち、空中には意味不明な軌跡が描かれた。
                軌跡はみるみるうちに文字へと変わり一瞬光っては消えた。

                その瞬間、不思議なことに子犬の震えが止まった。
                さっきまでぐったりしていた子犬が、今はアリシャの顔を見ながらしっぽを振っている。
                元気になった子犬を見てアリシャは生まれて初めて心から笑った。

                アリシャと子犬は神殿の前の広場でしばらく遊んだ。
                雨が降っているのを忘れてしまうくらい明るく走り回る姿を見て、シェーンは優しく微笑んだ。

                日が沈む頃、シェーンの提案で2人は子犬の飼い主を探すことにした。
                丘を下って村中を回り、なんとか子犬の飼い主を見つけることができた。

                アリシャは飼い主に抱きかかえられ去っていく子犬の姿を見て寂しそうに手を振った。
                気づくと雨は止んでいて、澄んだ空気が流れていた。

                「アリシャ。魔法を学んでみないか?」

                孤児院に戻る道でシェーンがアリシャに言った。
                男の質問にアリシャは迷いもせず、うなずいた。
                即答する少女を見て、男はまた声をたてて笑った。

                一方、アリシャは子犬を治したシェーンの魔法を思い浮かべていた。
                そして奇跡のような瞬間を一生忘れまいと心に決めていた。

                 

                 

                 

                険しい森を通り抜けると、四方が山脈に囲まれた広い盆地が現れた。
                ギシギシと音を立てる馬車は盆地に入った。
                ここは王国が警戒令を出した北方地域付近に隠された隠密な場所で、
                人間と魔族の2つの勢力は足を踏み入れることのできない魔術師たちの領域だった。

                平原が広がる盆地の中心には、空に向かって立っている立派な塔が1つあった。
                不思議なオーラに包まれた塔の形状はまるで周辺の全ての気を吸い込んでいるかのように見えた。
                大陸最大の魔法学校として名の知れたイウェカの塔だった。
                魔術師を目指す者なら誰もが憧れる場所だった。

                シェーンとアリシャを乗せた馬車が塔の正門の前に着いた。
                塔の不思議なオーラは、まるで2人を歓迎するかのように激しく波打った。

                孤児院出身という独特な背景にも関わらず、アリシャはすぐに塔の生活に慣れた。
                彼女のマナに対する感応能力はとても優秀だった。
                一般的な魔術師はマナを扱う時に魔法のスタッフが必要不可欠だ。
                スタッフがないと目に見えないマナをどれくらい、どのように扱えばいいのか調整するのが難しいからだ。
                だが、アリシャは感覚的にマナの変化と流れを感知し自身の意志でマナを制御することができた。

                「てめぇ、うるせんだよ!」
                「はあ?おめぇに言われたくねーよ!」

                教室の中は騒がしくなった。同級生同士の喧嘩のようだった。
                野次馬が次々に教室を訪ねてきた。
                互いに向かって怒鳴りあっていた2人は、勢いで魔法のスタッフを取り出した。

                生徒たちは動揺し、2人を止めようとした。
                魔術師たちが魔法を使用して戦うとなると、周囲に多大な被害を与える可能性があるからだ。
                周りにいた生徒たちは必死に止めたが、2人は理性的な判断ができないくらい興奮していた。
                2人の間のマナの流れがだんだん激しくなってきた。

                生徒たちは目を閉じ、次の瞬間、衝撃を覚悟した。
                しかし、いくら待っても2人の魔法のスタッフからは何も起こらなかった。
                2人は睨みあったまま杖を相手に向けていただけだった。

                「ど、どういうことだ?」

                2人の顔は真っ赤になった。
                何も起きないはずがないのにという顔をしていた。
                その時、アリシャが野次馬の中から出てきた。

                「アリシャ?」

                全員が動揺している中、アリシャは涼しい顔で2人を交互に見た。

                「喧嘩したいんだったら、決闘場でやってくれる?」

                2人の男子生徒の顔はますます赤くなった。
                その時、背中に隠していたアリシャの手の中には大量のマナが渦巻いていた。
                2人がスタッフに周囲のマナを集める前に教室のマナをすべて奪ってマナの真空状態を作り出したのだ。

                アリシャは振り向き、教室から出て行った。
                すると、その姿を唖然と見ていた2人の魔法のスタッフから激しい火花が散った。
                2人は驚き、スタッフを床に落としてしまった。
                周りの生徒たちは、その姿を見てクスクスと笑った。

                いつの間にか孤児院で生活していた時間より、塔で過ごした時間のほうが長くなった。
                彼女はもう孤児院にいた無力な少女じゃなかった。

                「アイススピア! 」

                アリシャは研究室の窓際に腰を下ろして窓の外に手を出しながら叫んだ。
                彼女の手のひらにマナが集まったが、爆竹が弾くような音がするだけだった。

                シェーンの魔法研究室だった。
                彼女は授業がない時はこうやってシェーンの魔法研究室で過ごすことが多かった。
                シェーンは彼女の後見人であり指導教師だったが、彼女にとっては教師というより親友のような存在だった。

                「大きく叫んだらできるってもんじゃないだろ。」

                シェーンは嘲笑いながら言った。
                アリシャがシェーンを睨みつける。
                彼はその視線を感じると、シェーンは口を閉ざして机の上にある書類に目をそらした。

                「アイススピア!」

                もう一度叫んでみたが、結果は変わらなかった。
                彼女はマナを直接扱う能力には優れていたが、マナを元素に変換させるのは苦手だった。

                そのため、アリシャは元素魔法についてコンプレックスがあった。
                マナを自由自在に操ることができても、その力をこの世に投影できないのが悔しかったのだ。

                「だから君にルーン魔法を学んでほしかったんだけどな。」
                「ルーンはつまらないわ。」

                アリシャの反論にシェーンは苦笑いした。
                シェーンは歴史上もっとも古い魔法の1つであるルーン魔法を専攻した魔術師だった。
                古代戦争の前に作られたとされるルーン魔法はルーン文字を使用して動作するのだが、その原理と秘法のほとんどが人類の歴史に残されていなかった。
                だから塔の研究者たちの間でも正立されていない状態であり、シェーンをはじめとする極少数の魔術師だけが遺産を発掘するかのように歴史を研究し、少しずつ領域を広げている魔法だったのだ。

                「だとしたら、私が用意したプレゼントもつまらないだろうな。」

                シェーンは研究室の奥から何かを取り出し、アリシャに見せた。
                それは小さなブレスレットだった。
                薄いブレスレットには微細なルーン文字が刻まれていた。
                シェーンが直接刻んだルーン文字のようだった。

                シェーンは自信に満ちた顔で近づき、アリシャの腕にブレスレットを付けてあげた。
                彼女は半信半疑でブレスレットを着用したまま左手にマナを手中させた。
                彼女の手のひらにマナの炎が燃え上がった。
                彼女は目を丸く開いて驚いた。

                「それはキャストレットだ。変換が難しいなら、マナを直接操るのも方法だ。」

                シェーンの言う通りだった。
                キャストレットを使用すると、純粋なマナの粒子たちがアリシャの思うままに形を変えていった。
                彼女が風を思い浮かべると粒子たちは回転しながら風を作り出し、冷たい氷を思い浮かべると頑丈なマナの水晶が現れた。

                これ以上ない最高のプレゼントだった。
                満面の笑みを浮かべたアリシャは、シェーンに抱きついた。
                シェーンは喜ぶアリシャの姿を見ていつものように声をたてて笑った。

                全てが真っ黒に染まった世界だった。
                この世界には光も闇もない。生命も死もなければ、時間も存在しない。

                世界には光がないため、闇というものは存在ない。
                ただ「無」に満ちた世界だった。

                世界には生命が存在しないため、当然死も存在しない。
                生命を持つものが招待される場所でもなければ、死を迎える存在が足を踏み入れる場所でもない。

                世界には時間が存在しないため、永遠だった。
                この不滅の世界は太初から存在し、今後も永遠に存在するであろう。

                世界の永遠な闇を何度も眺めた。
                ここは孤独だ。
                助けて。叫ぼうとしても無駄だった。
                時間に声を囚われ、闇に存在を消された。
                助けて。涙を流したかった。でも、それすらできなかった。
                永遠という苦痛に抑圧された。

                永遠という孤独が私の全ての可能性を奪っていった。
                逃げなければ…。
                ここから逃げ出さなければならない。

                「助けて!」

                断末魔のような悲鳴を上げると同時にアリシャは目を覚ました。
                目の前には自分を心配そうに見下ろすシェーンの姿があった。
                また例の悪夢だ。
                夢だったことに気づいたアリシャは安堵すると同時に羞恥心に襲われた。
                シェーンの前で寝言を叫んだのがひどく恥ずかしかった。

                「大丈夫か?アリシャ。」

                シェーンはそう言いながらアリシャに優しく微笑んだ。
                孤児院にいた頃から続いた時間が止まる現象は、いつしか意識を失ってしまうほど深刻なめまいを伴うようになっていた。

                「私に一体何が起きているの…?」

                アリシャは不安な声で話した。
                意識を失って倒れたのが、今週だけで2度目だったからだ。
                症状が現れる周期が徐々に短くなっていく。

                彼女の体は恐怖で震えていた。
                シェーンは彼女を優しく抱きしめた。

                「大丈夫だ。」

                シェーンの優しい声はアリシャの不安を取り除いた。
                アリシャは再び深い眠りについた。

                 

                 

                 

                シェーンの剣がアリシャの胸を突き刺した。
                剣には異界の神を封印するための古代ルーン魔法が付与されていた。
                剣は一瞬で彼女の体を貫通し、心臓に触れた。
                魔法が発動すると、アリシャの体は発作を起こすように激しく揺らいだ。
                彼女の体を媒介として、現世に降臨しようとした異界の神が抵抗を始めたのだ。

                シェーンはマナをさらに注入し、封印の完成を急いだ。
                彼が一瞬でも剣を手放すと封印は失敗し、アリシャの人格は永遠に異界の次元に閉じ込められてしまうからだ。

                次の瞬間、彼女の体から大量のマナがほとばしった。
                異界の神の最後のもがきだった。
                マナは周辺の空間を素早い速度で回転しながら、一瞬にして小さな突風を作り出した。

                突風はその中にあるすべての存在を小さな単位から消滅させていった。
                ローブの裾をはじめ、シェーンの手の甲や腕、足まで…。全身の皮膚と筋肉の細胞は少しずつ突風によって崩れ落ちた。
                激しい苦痛にシェーンは悲鳴を上げた。だが、手に握った剣だけは離せなかった。

                彼の瞳にはアリシャが身もだえる姿が映った。 
                ここで諦める訳にはいかない。
                彼は覚悟を決めると、封印に出来る限りのマナを全て注ぎ込んだ。

                封印が完成すると、一瞬で突風は消えた。
                彼は消滅する最後の瞬間まで剣を離さなかった。

                そして、彼の眼鏡や長剣が床に落ちた。

                アリシャが目を覚ましたのは見覚えのない魔法研究室だった。

                彼女は気だるい体をなんとか起こした。
                意識はぼんやりして頭には針で刺すような鋭い痛みが走った。
                どうしてこんなところに倒れていたのか、思い出すことができなかった。

                誰かが置いて行ったと思われる眼鏡と剣が床に落ちていた。

                アリシャはそっと眼鏡を拾い上げた。

                少し前まで、誰かと一緒にいた気がする。
                しかしそれが誰なのか思い出せない。

                数日経っても、アリシャの頭から疑問は消えなかった。
                消えた記憶の欠片が多すぎたのだ。

                彼女の心臓には魔法の痕跡が刻印されていた。そして、彼女の腕には魔法道具と思われるブレスレットがあった。
                2つともルーン魔法の痕跡だった。

                研究室で発見した眼鏡と剣を眺めながら、アリシャは何か大事なものを忘れているような気がした。
                アリシャは真実を明かしたい衝動に駆られた。
                彼女は塔を出て手がかりを探すことにした。
                ルーン魔法だけが唯一の手がかりだった。

                大陸にいる魔術師のうち、ルーン魔法を扱える魔術師は一握りだ。
                アリシャは噂を頼りに魔術師協会の魔術師たちや王宮の魔術師たちに会ってみたが、彼女の体に刻印された魔法について知る者はいなかった。
                そんな中、大陸の辺境にある小さな村にかつて王国で最も有名だった魔術師が住んでいるという話を聞いた。
                アリシャはその村に向かうことにした。

                 

                 

                 

                村に向かうための最後の関門「ヒルダ森」でのことだ。

                だんだん近づいてくる重い足音にアリシャは目が覚めた。
                いつの間にか眠っていたようだ。
                彼女は近づいてくる存在との戦闘に備え、腰元の剣とキャストレットを確かめた。

                森の闇を突き破って現れたのは赤い鎧を身にまとったリザードマンだった。
                夜空を照らすラデカの月明りが鎧に反射し、灰白色に煌めいた。
                湿潤な場所を好む種族がどうして森の中にいるのか疑問を感じたが、彼女に敵意を持っていることだけは確かだった。

                リザードマンの目は何かに酔っているように揺らいだ。
                その瞬間、爬虫類特有の鋭い視線がアリシャに向けられた。
                リザードマンは両手に大剣と盾を持って突撃体制に入った。

                「あまり相手したくないけど…。」

                アリシャは腰にかけた剣を抜き、刃先が下を向くよう逆さに持った。
                リザードマンはこの瞬間を待っていたかのように奇声を上げながら飛びかかってきた。

                手ごわい相手ではない。
                月明りが照らす夜の森にはいつもより高い濃度のマナが充満していた。
                これくらいあれば十分だ。

                アリシャは左手を開き、キャストレットにマナを集中させた。
                彼女の体に刻印されたルーンを通して古代魔法の術式が発現される。
                マナが古代魔法の術式によって共鳴し、周辺の世界を徐々に覆っていった。
                彼女の左手を中心に周辺のすべての流れが止まり始めた。

                森を通り抜ける風が止み、静けさが訪れた。
                リザードマンの狂気に満ちた瞳と彼女の首を狙っていた剣先も止まった。
                世界のすべてが一瞬凍りついたようだった。

                アリシャがリザードマンに向けて足を踏み出す。
                すべてが静止した世界で彼女だけは自由だった。

                彼女はマナの力を利用し、リザードマンの頭上に飛び上がった。
                そして彼女は兜の隙間から見えるリザードマンの目に向けて剣を振り下ろした。

                リザードマンの巨大な体が地面に倒れた。
                アリシャはこれで終わりじゃないと悟った。
                森の陰に自分を尾行する存在が隠れていたからだった。
                このリザードマンも彼らに関係しているのだろうか。

                「さすがだな。」

                陰の中から低い声が広がると同時に猟犬を連れた黒いマントの群れが現れた。
                彼らは身元を特定されないように黒いフードと黒いマスクを着けていた。黒いマントを身にまとった群れはゆっくりアリシャに近づき、彼女を囲った。

                アリシャは再びキャストレットにマナを集め、戦闘態勢に入ろうとした。

                「我々はお前と戦うために来たわけではない。」

                黒いマントの群れから一人の男が出て来てアリシャに言った。
                群れの中で彼だけが黒いマスクを着けていなかった。
                暗闇に満ちた森の中で男の顔はぼやけて見えた。
                男は構わず話し続けた。

                「我々は異端の力を封印することに成功したかを、確かめたかったのだ。」

                男の口から出た言葉が理解できなかった。
                異端の力とは何を意味しているのだろう。

                「見た感じルーン魔法は成功したようだな。予想したものとは少し形が違うが、それもあのお方が意図されたことだろう。今日のところは引き下がってやる。」

                男が手を上げて合図すると、黒いマントの群れは一斉に森の陰へと消えて行った。

                「ちょっと待って!」

                差し迫った声で、アリシャは叫んだ。
                男はルーン魔法のことを話していた。
                この男なら、自分の体に刻まれた痕跡について知っているかもしれない。
                男は立ち止まって言った。

                「そういえば、あの方がこんな事を伝えてほしいと言っていた。
                お前が探している者はもうこの世に存在しない。時の魔女よ。」

                男はそう言うと陰の中へ消えてしまった。
                アリシャは一瞬男を追いかけようとして、やめた。

                 

                 

                 

                記憶の中から誰かの影が彼女を捕らえた。
                シェーン…。 
                突然頭に浮かぶ単語にアリシャは複雑な感情を覚えた。
                ずっと探していた人。
                彼女は塔から持ってきた眼鏡を手にした。
                シェーンの眼鏡…。
                思い出せそうで思い出せない記憶は、混沌によって点滅する。

                それもしばらく。再び忘却の闇が彼女を襲い始めた。
                陰はいつの間にか消えていた…。

                魔術師になる前、男は1人の女を愛していた。
                女は天気を予測して植物を育てる不思議な能力を持っていた。
                男はそれを彼女だけが持つ素敵な能力だと思っていた。
                しかし、それが魔女の力であることに気づいてから、何もかもが変わってしまった。
                異界の神は徐々に女の人格を追い出していった。
                女は神の能力に蝕まれ、結局死を迎えることになった。

                男は愛する人を助けられなかった罪悪感に苛まれた。
                罪悪感は若い日の彼の髪の毛を真っ白に染めた。
                男は逃げるように北の地へと旅立った。
                そして、そこで魔術を学んだ。
                ずっと逃げ続けてきた人生は、陳腐で静かな無色の人生だった。
                ある日、男は全てを手放したくなった。
                そして、最後の旅路に立った。
                捨てられた神殿を眺めながら男は死を覚悟した。

                次の瞬間、男に忍び寄る死の影は消え、運命のように少女が現れた。
                これから神の媒介となる少女、魔女になる生贄だ。
                男は死を諦め、再びこの世で生きることにする。
                そして、この少女だけは何があっても守り切ると心の中で誓った。

                男は約束を守った。
                そして、その対価として他の世界へ消えていった。

                アリシャは溢れる涙を止めることができなかった。
                彼女は答えを探すことにした。
                異端の力とは何か、封印は何を意味するのか、その真相が知りたかった。
                そして、答えが見つかるまでは塔に戻らないと決心した。
                しかし、何から始めるべきか分からなかった。
                彼女が森を抜けると、そこには村があった。

                その村の名前はコレン。

                 

                マビノギ英雄伝公式サイト

                「アリシャ キャラクターストーリー」より

                 

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                ベラ :: キャラクターストーリー

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                  女性はとても退屈そうに見えた。
                  宿屋の主人は不安げに彼女をちらちらと横目で見ながらホールを掃除していた。
                  朝の日差しの中、埃がぱらぱらと舞い上がったが、ソファに寝そべっていたその女性はまったく気にしなかった。

                  それどころか謎の鼻歌まで歌っている。
                  宿屋の主人はだんだん不安になり、その不安を打ち消すかのようにほうきを激しく動かした。
                  そのせいで宿屋のホールには巨大な砂埃が立ち込めていた。

                  どうしてこんなことになったのだろうか?
                  宿屋の主人は気づかれないようにため息をつき、女性が宿屋に入ってきた時のことを思い返した。

                  こんな人里離れた海辺の村には旅行客などめったにいなかった。
                  宿屋というより地元の人々の酒場と化していたため、宿屋の主人は久しぶりの客がとても嬉しかった。

                  「傭兵ですか?」
                  「傭兵?」

                  人殺しでもしそうなその視線に宿屋の主人は凍りついた。

                  「よく覚えといて。私は傭兵が大嫌いなの。」

                  あの時に追い出すべきだった。
                  とっさに吹っ掛けた高い部屋代に彼女がすんなり応じることさえなければ、きっと追い出していただろう。

                  それがちょうど一週間前の出来事だ。その一週間のうちに宿屋の主人は一生分の事件や事故を経験したと断言できる。

                  初日は巨大な魔物の死体を馬小屋に入れるはめになった。
                  置く場所がないから置かせてほしいという女性の切実な視線とずっしりした金貨袋を前に、気の弱い主人は断れなかった。
                  どうせ馬小屋にいるのは荷車を引く年老いたラバが一頭だけで、スペースは有り余っていた。
                  その夜、宿屋の主人は空から金の雨が降る夢を、馬小屋のラバは魔物が蘇って自分を食いちぎる夢を見た。

                  二日目も見たことのない魔物の死体だった。
                  初日の出来事で肝が据わった主人はその日も首を縦に振るしかなかった。
                  前日と何も変わらないことだった。
                  その魔物が実は完全な死体ではなく、夜中に目を覚ましたことを除けば…。
                  思い返せば馬小屋のラバが見たのは予知夢だったのだ。
                  人間に生まれていたら有名な予言者になっていたかもしれないラバは、尻尾を食いちぎられただけで命は助かった。
                  そしてその日も金の雨が降る夢を見ていた主人は、宿屋を飛び出すと血の雨を浴びた。
                  起こしてしまったことを笑顔で謝る女性を前に、主人は放心状態で頷いた。
                  魔物を殴りつけたのか斬りつけたのか…光など一筋も見えない暗闇の中、双剣の先から滴り落ちる血だけははっきりと見えた。

                  そして三日目は……。
                  何をすれば一日で呪いにかかった遺物を見つけてこられるのだろうか?
                  宿屋の主人はこの村で生まれ育った。
                  近くにそのような遺跡があるという話は聞いたこともなかった。
                  いや、もしかして…。隣の家のおばあさんがときどき正気に戻ると話してくれた昔話にそのようなものがあった気がする。
                  しかし正気でない時はいつも世界が滅亡すると叫んでいたおばあさんだった。
                  主人は身震いし、立ち上った埃でくしゃみをした。
                  視力は良くなったが、鼻炎はひどくなったようだった。

                  とにかく重要なことは、一週間前の平和がまるではるか昔のように感じるという事実だった。
                  女性を追い出そうと何度も思った。
                  しかしその度に彼女は剣を磨いていたり、魔物の皮を剥いでいたり、不吉な気を帯びた何かを熱心に磨いていた。
                  見た目は山賊でも気は弱い宿屋の主人にとってそれはあまりにも衝撃的な行為だった。

                  床は十分に磨いたし、テーブルも全てピカピカだ。
                  他に汚いところは……。

                  宿屋の主人は女性が座っているソファをちらっと見て深いため息をついた。
                  近づいたら何か悪いことが起きる予感がした。
                  心の中で思い切り悪態をつきながら宿屋の主人は宿泊者名簿を開いた。
                  何度見ても宿泊客は一人だけ。宿泊者名簿の一番下にはその忌々しい名前が書かれていた。

                  ベラ。
                  二度とこの名前には近づかないと宿屋の主人は自分自身に誓った。

                  ベラは退屈だった。
                  おかしいわ…。おかしなくらいつまらない。
                  ベラはつぶやいた。
                  宿屋の主人が聞いていたら驚いただろうが、彼は幸い彼女から最も離れた場所にいた。

                  とても良い予感のする村だった。
                  率直に言って、大当たりの予感がしていた。
                  彼女のトレジャーハンターとしての人生の中で、これほどの予感は初めてだった。

                  そしてその予感通り、平凡な村にしては収穫があった。
                  珍しい魔物を二体も倒し、忘れられたダンジョンも制覇した。
                  だがそれからは何もなかった。
                  …そんなわけがないわ。

                  彼女の勘は一度も外れたことがなかった。
                  納得がいかず、彼女は村の子供たちのおもちゃやペット探しの依頼まで受けた。
                  おもちゃは悪霊が取りついた呪術人形で、ペットはまだ子供のグレムリンだった。
                  しかし彼女の勘が確かならば、少なくとも忘れられた神物や正体を隠した魔獣くらいでなければならなかった。

                  これまでに彼女の勘が外れたことはたった一度で、その一度のせいでずっとトレジャーハンターの仕事をしながら放浪していた。
                  もし今回も外れているならば、その時のようにひどい災難に遭うのだろうか?
                  何せ過去に一度しか起きていないことなので彼女にも分からなかった。

                  …本当に嫌だ。
                  ベラはソファに深く体を埋めた。
                  遠くから静かな波の音が聞こえてくる。
                  この村で唯一好きなところはそれだけだった。
                  海辺。
                  カモメの鳴き声。
                  空気に混じった潮の匂い。
                  幼い頃の故郷を思い出させる平和な雰囲気……。
                  時間を潰すには悪くない村だった。
                  もしかしたら今の彼女には休息が必要で、だからこのような場所に辿り着いたのかもしれない。
                  そうね。たまにはじっと待つことが美徳なのかもしれない……。

                  「あぁ…一体いつ現れるのよ!」

                  ベラはもともと短気な性格だった。
                  そして幸い運命はいつも彼女の味方だった。

                  「部屋はありますか?」

                  カウンターの後ろから傷だらけの宿屋の主人が飛び出してきた。
                  先ほどベラの叫び声に驚いて椅子から落ちたからである。
                  あの女性以外の人間なら誰でもよかった。
                  宿屋の主人は明るく笑いながら、

                  「はい、ありますが……」

                  男は典型的な放浪者の出で立ちをしていた。
                  土埃をかぶった服は歳月の痕跡がわずかにあったが、物が良いせいか、古いと言うより年輪を感じさせた。
                  ここまでは記憶に残らない旅人に過ぎなかった。
                  しかし宿屋の主人は思った。
                  あの女性が現れてからロクなことがない…。
                  男は宿屋の主人から見ても驚くほど整った顔をしていた。
                  宿屋の主人はそれ以上言葉を続けられず口をパクパクさせた。

                  しばらく訝しげに思っていた男は宿屋の主人の視線を追って振り返った。
                  彼を殺さんばかりの形相でにらむ女がそこにいた。
                  人違いだろうか?
                  最初男はそう思った。
                  だが、すぐ既視感に襲われた。

                  「あ……。」

                  男は頭の中に浮かんだある名前を口に出した。

                  「ベラ?」

                  スッ……答えの代わりに聞こえてきた音を合図に男は振り返って走り始めた。
                  そして双剣を抜いた女が彼を追いかけた。

                  どうしてあいつがここに。
                  追う者と追われる者は同じことを考えながら必死に走った。
                  慌てて走る男の前に砂浜が広がった。
                  焦る気持ちとは裏腹に砂に足を取られてしまった。
                  男は自分を追う女も同じ状態であることを切実に願った。

                  しかし女はまるで飛ぶように砂の上を軽々と走っている。
                  砂を蹴り上げる軽やかな足音が波の音に混じって聞こえてきた。
                  足音は次第に近くなり、男は逃げ場を失った。
                  いや、まだある。
                  男は海へ飛び込んだ。
                  さすがにあの馬鹿デカイ双剣を持って海には入ってこられないだろう。
                  ならば勝算は自分にあると男は思った。

                  予想通り女は海辺に立ち止まり、男は歓喜した。
                  だが次の瞬間、激しい波が彼を飲み込んだ。

                  気がつくと、男は砂浜の上で水を吐き出していた。
                  海水を飲み込んだ鼻と喉が死ぬほど痛かった。
                  だがそれより男には空気が必要だった。
                  慌てて息を吸うと喉まで来ていた海水が再び鼻の中に逆流した。
                  男は死ぬほど咳き込んだ。

                   

                   

                  ベラは男が落ち着くまで静かに待った。
                  だが少しマシな状態になった男がこそこそ這って逃げようとしたので、
                  容赦なく脇腹を蹴ってやった。
                  男は脇腹をつかみながらのたうち回った。

                  「ほ、骨がぁ!骨が折れた!」

                  「ひざまずきな。」

                  「はい。」
                  男は大人しくひざまずいた。
                  そして捨てられた子犬のように彼女を見上げた。

                  「チッ。」
                  「助けてくれ!」

                  男は地面にひれ伏した。

                  「助けてやったじゃない。」

                  ベラが海の方を指差した。

                  「海辺出身の私の前で海へ逃げるなんて馬鹿なの?」

                  男は魂が抜けたようにぼうっとまばたきした。
                  ついさっきまで死にかけていたのだから当然だろう。
                  ベラもそれは理解していたが、気にせず話を続けた。

                  「ねえ、あんた。私をさらった村のことなんだけど、どこなのか覚えてるの?」

                  男の顔は一気に青ざめた。

                  「すまなかった!あの時は俺も若かったし、貧しかったんだ。役立たず扱いされて、お前を連れてこなければ傭兵団から追い出すと言われて……。で、でも俺のおかげで助かったじゃないか!」

                  ベラは必死に言い訳する男を黙らせようとした。
                  しかし最後の言葉が気になった。おかげで助かったって…誰が?

                  「おかげで助かったって、どういうこと?」

                  男はまたぼうっとした表情でまばたきした。

                  ベラは当時まだ十歳だった。
                  村の名前も、位置も知らなかった。
                  十数年放浪したが、自分をさらった傭兵団も、自分がさらわれた村も見つけられなかった。
                  今すぐにでも聞き出したかったが我慢した。
                  知りたくてたまらないと態度に出すことは弱みを見せることになるからだ。
                  ベラは落ち着いた素振りで腕組みした。

                  「死にたいなら遠慮なく言って。いつでも海に放り込んであげるから。」
                  「い、いや……。し、知らないのか?」
                  「何のこと?」
                  「実は……あの村は……。」

                  男は真実を言って自分の命がどうなるか確信が持てなかった。

                  「……全部燃えちまった。焼き尽くされたんだ。」
                  「何ですって?」

                  ベラは目を見開いた。

                  「今、何と言ったの?」 

                  ベラは十歳だった。
                  好奇心が旺盛で、好きなこともたくさんあった。
                  海で泳ぐことや、砂をかき分けてキラキラ光る貝や小石を見つけることも好きだった。
                  彼女の部屋の窓辺には一番きれいな戦利品だけを入れておくガラス瓶が置いてあった。
                  いっぱいになると新しいガラス瓶を持ってきた。
                  今まで集めたものをどれも捨てたくなかったからだ。
                  天気が良い日にガラス瓶と中の珊瑚や貝、小石がキラキラ光るのを見て、いつかこれを高く買ってくれる人が現れないかと妄想したりした。

                  しかし一番好きなのは傭兵とトレジャーハンターだった。
                  どちらかを選べと言われたら彼女は選べなかった。
                  ガラス瓶から一つを選べないのと同じように。

                  村には稀に旅人が訪れることがあった。
                  そんな日は、村中の子供たちが宿屋として使われる村長の家に押しかけた。
                  大概追い出されたが、たまに親切な旅人が子供たちを集めて話をしてくれた。
                  海辺で囲んだ焚き火の前で、旅人の顔は世界で一番物知りな賢者のように輝いていた。
                  傭兵やトレジャーハンターの話になると、ベラは一言も聞き逃すまいと注意深く耳を傾けた。

                  世界を股に掛ける傭兵やトレジャーハンターはベラにとって英雄のような存在だった。

                  「私、大きくなったら傭兵になるの!」
                  「前はトレジャーハンターになるって言ってなかった?」

                  向かいの家のマリがからかってきた。

                  「両方やればいいもん!」
                  「両方なんて無理よ。あんたはどっちもできないわ。村の外に出たこともないくせに。」

                  憎たらしい少女だった。
                  ベラはあまりにも腹が立って息が荒くなった。
                  マリの祖父は近くの都市で雑貨屋を営んでいたため、彼女は何度かその都市に行ったことがあった。
                  一方ベラは一度も村を出たことがなかった。
                  都市に出ても親戚一人いないので泊まる場所もなかったが、それ以前にベラの家族は都市に向かう馬車代を支払う余裕すらなかった。
                  貧しい漁師の家系にとって海辺の村とは生計を立てるための基盤だった。
                  簡単に村を去れるはずがなかった。

                  不愉快になったベラはマリの髪を引っ張ってやりたかったが、ぐっと堪えて海辺の小さな小屋を訪れた。
                  この時ベラはまだ我慢強い子供だった。

                  「よお!今日も来たね、お嬢ちゃん!」

                  彼女が海岸の小屋に顔を出すと、人々は笑顔で彼女を迎えてくれた。
                  いかつい男たちが砂浜にぐるりと座ってリュートの弦を弾いていた。
                  十年近く空き屋だった小屋に十人余りの人々が流れ込んで住み始めたのは一ヶ月ほど前のことだった。

                  それ以降、静かだった小屋は昼も夜も踊りや歌で賑わっていた。
                  彼女がここで過ごしていたことが知られれば母親に怒られることは明らかだった。
                  しかしそれでもベラはこの場所が好きだった。

                  「そうか。今日も俺たち傭兵団の武勇伝を聞きに来たのか!」
                  「うん!」

                  顔に大きな傷跡のある男が彼女を喜んで迎えた。
                  男の顔からはどこか険しさが感じられたが、不思議なことに彼女にはそれがかえって心地よかった。
                  おかしな気分だった。
                  おそらく彼らが彼女にとって生まれて初めて見る「傭兵」だったからだろう。

                  傷跡のある男がベラを小屋の近くにある丸太の椅子へ連れてきた。
                  その姿を見てリュート演奏者の前で踊っていた男の子が踊りを止めて彼女の方に来た。

                  「ようこそ、ベラ。」

                  男の子は海辺の田舎村では珍しいきれいな顔立ちだった。
                  幼いが整った目鼻立ちをしていた。
                  彼はこの傭兵団で一番若い末端だった。
                  短い金髪を無理やり後ろに流した少年の顔には男らしさと女らしさが適度に混ざった優雅な雰囲気が漂っていた。
                  男の子はベラに近づき、山葡萄で作った飲み物を差し出した。
                  傭兵団では末端だが、彼女よりは何歳か年上だった。

                  「私も傭兵になりたい!」

                  雑談の最後はいつも傭兵になりたいという話で終わった。
                  彼らの自由な生き方を見るたびに、ベラの心の中では傭兵になりたいという熱意が一層高まった。
                  どこにも縛られず自由に音楽と踊りを楽しむ傭兵団。
                  それは傭兵に対する間違った第一印象だったが、幼いベラがそんな事情など知る由もなかった。

                  傭兵団の人々はベラの宣言を聞く度にいつもケラケラと笑った。
                  小さな子供がいい度胸をしているとあざ笑っていたのだ。
                  ベラは男たちのそんな偉そうな態度が嫌いだった。
                  いつかあいつらよりずっと立派な人間になって懲らしめてやると誓った。
                  だが、唯一傭兵団で末端の少年だけは真剣な眼差しで彼女を見つめていた。

                  「お前ならできる、ベラ。その素質があると思うよ。」

                  その言葉を聞いてベラはにっこりと笑った。
                  いつも自分を認めてくれるのはその少年だけだった。
                  その時、一人の大男が二人の間に割って入ってきた。

                  「傭兵になりたいだと?それなら早く決めないとな。俺たちはもうすぐここを発つからな!」
                  「え……?」

                  大男は頷くと片手に持った酒瓶を一口ごくりと飲んだ。
                  酒臭い口元を袖でぬぐった彼は少年を見てにやりと笑い、他の仲間たちのもとへ戻っていった。

                  「ここを出ていくの?本当に?」
                  「ああ。俺たちはもうすぐ出発する。都市から傭兵団に大きな依頼が入ったんだ。」

                  少年はいかにも真剣そうな顔で話し出した。
                  大げさに話していることは表情を見れば誰でも分かったが、ベラはまったく気づかなかった。
                  都市に行っちゃうんだ…。ベラががっかりと気を落とした直後だった。

                  「だから最後に特別な友達だけを呼んで秘密のパーティーをやる予定なんだ。」

                  少年はパーティーという単語に力を入れて話した。
                  ベラの耳はグレムリンの耳のごとくピクリとその言葉に反応した。
                  パーティー!ベラはこれまでたった一度もパーティーというものに行ったことがなかった。
                  向かいの家のマリが都市で開かれたパーティーの自慢話をする度、ベラは彼女の頭を小突いていた。それがベラの知るパーティーの全てである。
                  そんな彼女が初めてパーティーに参加できると聞き、胸の高鳴りを抑えられるわけがなかった。

                  「これは秘密のパーティーだから誰にも言うなよ。」

                  少年の言葉にベラは何度も頷いた。

                  どうして今日に限って太陽が動かないのだろうか?
                  日が沈むのをここまで待ち望んだのは初めてだった。
                  母親にもマリにもばれずパーティーに参加するために、ベラは一日中片手で自分の口を押さえていた。
                  もしかしたら無意識にパーティーという言葉が出てしまうのではと心配だった。
                  ついに太陽が村の裏山に沈もうとしていた。
                  待ちに待った夕暮れ時が来たのだ。
                  ベラは後ろを振り返りもせず海辺の小屋へ走っていった。

                  パーティーは彼女が思っていたよりずっとささやかなものだった。
                  いつも聞いていたリュートの旋律と歌声、いつも見ていた踊りに加わったものと言えば、昼の太陽の代わりに赤く光る焚き火くらいだった。
                  パーティーにはベラ以外にも普段から傭兵になりたいと言っていた村の子供たちが何人かいた。
                  秘密のパーティーと言っておきながらそこらにいる子供を適当に集めただけじゃないか…。ベラはそう思うとすっかり不機嫌になった。

                  「ベラ。お前に見せたいものがあるんだ。」

                  小屋の近くでぶらぶらしていた彼女の前に末端の少年が現れた。
                  彼は焚き火の方へ手招きし、丸太の椅子にベラを座らせた。
                  少年が見せたがっていたのは腰のところに挿した双剣のようだった。
                  彼はスッと双剣を取り出した。三日月をかたどったような二本の剣が焚き火の明かりを受けて赤く光った。
                  双剣を握った少年は焚き火の周りをぐるぐる回りながら踊り始めた。
                  それを見ていた子供たちから嘆声が沸き上がった。
                  とても華麗な動きだった。
                  しかしベラの目には何だか雑な動作に見えた。

                  あれくらい私だってできる。
                  ベラは焚き火をするための木材の中から乾いた枝を二本拾い上げた。
                  そして少年と同じ動作で踊り始めた。
                  まるで水のように滑らかな動きとともに、人々の視線は少年ではなくベラに移った。
                  彼女の動きはまるで全身で自由を表現しているようだった。
                  水の流れのように不規則に動きながらも、繰り返し感じられるリズムが見る人を魅了した。
                  少年を含むパーティー場にいる全ての人々が次第にベラの踊りに夢中になっていった。

                  すると、ベラが焚き火に向かって跳躍し、宙返りした。
                  彼女を見守っていた誰もが息をのんだ瞬間だった。
                  しかし彼女は皆の心配などお構いなしに、炎の目の前に正確な姿勢で着地した。
                  その姿に割れんばかりの拍手が沸き起こったのは当然だった。

                  「ハハ、こいつは一本取られちゃったな。」

                  少年は首を横に振りながら苦笑いを浮かべた。
                  自分がこれまで懸命に練習して身につけた動作をいとも簡単にやってのけられたのだ。少年はそう言うしかなかった。

                  「俺たちは今晩出発する。」

                  少年が彼女に手を差し出した。

                  「やっぱりお前には才能があるよ、ベラ。俺たちと一緒に傭兵にならないか?」

                  ベラは戸惑った。
                  少年の手。それは傭兵になれる片道チケットだった。
                  彼女があんなにもなりたかった傭兵という夢は、少年の手さえ握れば叶うはずだった。

                  しかしベラは悩んだ末、首を横に振った。

                  「お母さんを置いては行けない。」
                  「そうか?ならしょうがないな。」

                  少年は残念そうに笑った。
                  焚き火に照らされた彼の顔はどこか暗く見えた。

                   

                   

                  焚き火が消える頃、村の子供たちは一人二人と家へ帰り始めた。
                  名残惜しい気持ちでいたベラの前に少年が来ておにぎりを一つ差し出した。

                  「さぁ、食べな。」

                  ベラはあまり気が進まなかった。

                  「要らない。」
                  「もらってくれよ。最後のお別れのプレゼントだぞ。」

                  そう言うと少年は強引におにぎりをベラの手に持たせた。
                  思い返してみれば、その言葉に騙されてはいけなかった。

                  「うん、分かった。」

                  仕方ない。
                  彼女は少年の見ている前でたった一口だけ食べて家に帰るつもりだった。

                  しかし当時のベラには分からなかった。
                  男が密かに渡した好意が何を示しているかを。

                  残念だがそろそろ別れの挨拶をしないと。ベラはそう思った。
                  しかし彼女はその後たった一度も傭兵団と別れの挨拶をすることはなかった。

                  コロコロ…。
                  彼女の手から小さな歯型の残ったおにぎりが転がり落ちた。
                  そしてそれと同時にベラの意識も……。
                  どこか深い場所へと落ちて行った。

                  次の瞬間、彼女が目を開けたのはどこか分からない暗い空間だった。

                  ガラガラガラという音に合わせて床が上下に振動した。
                  そしてそのたびに床に寝かされた彼女の頭が左右に激しく揺れた。
                  頭がズキズキ痛んだ。

                  ここは一体どこ?
                  全身が砂に埋もれたように重かった。
                  まぶたを上に上げるのも一苦労だった。
                  やっとのことで目を開けると、目の前には床に置かれたガス灯とそれを囲む男たちが見えた。

                  「新しく取り寄せたあの薬草。ちょっと効きすぎなんじゃないですか?」
                  「あんな子供に使うために作ったものじゃないだろうから……今度からは半分でよさそうだな。」

                  ガス灯を囲んだ男たちの声だった。
                  まだ視野がぼんやりしていて顔を確認することはできなかったが、彼女は会話をする二人の声を覚えていた。
                  傭兵団員のうち顔に傷跡があった男と大男の声だった。

                  「それはともかくあれほどの小娘なら高く売れそうだ。あの子が剣舞を踊るのを見たか?」
                  「今回はチビの手柄だな!」
                  「ハハ、何てことないですよ。子供たちは秘密という言葉に弱いですから。」

                  あの少年の声だった。話から判断すると、彼らは彼女をどこかに売り飛ばすつもりのようだった。
                  傭兵団というのは全て嘘だったのだ!
                  その当時、大陸では傭兵団と偽って各地を巡り、子供たちを売買する組織がはびこっていた。
                  幼いベラの胸に裏切られた怒りと悲しみが込み上げた。
                  傭兵団になりたいという夢さえ見なければこんなことにはならなかった…。
                  そう思うと怒りが抑えられなかった。

                  今すぐにでも彼らに向かって怒鳴り散らしたかったが、これまでの状況から考えて自分が目覚めたということを知られないほうがよさそうだった。
                  ベラは動揺する気持ちを抑えてできるだけ息を潜めたまま静かに時が来るのを待った。

                  男たちの声の後ろから聞こえてくる規則的な馬のひづめの音が今どこにいるかを教えてくれた。どうやら彼女は荷馬車に乗せられているようだった。
                  ベラは目をつぶり、必ずチャンスは来るはずだと信じて時を待った。
                  閉じたまぶたの上でガス灯の光がゆらゆら揺れた。
                  男たちが言っていた薬草の効果のせいか、疲労のせいか、この火の光が揺れるたびに眠気に襲われた。
                  今眠ってしまったら逃げるチャンスを永遠に失うかもしれなかった。
                  ベラは眠気と戦うためにこっそりと拳を力いっぱい握った。

                  眠ったらダメだ。
                  握った手のひらに彼女の小さな爪が食い込んだ。
                  そしてそのたびに痛みが彼女を眠気から遠ざけた。

                  やがて荷馬車が目的地に辿り着いた。
                  馬車が止まると団員たちは先に荷馬車の外へ飛び降りた。

                  「チビ。俺たちは先に入ってるから、バレないように気をつけて運べよ。」
                  「落としたりするんじゃねえぞ。大事な商品なんだからな。クハハハハ。」

                  男たちは末端の少年にそう言って足音とともに離れていった。

                  「はぁ。いつまでこんな後始末ばかりさせられるんだろう。」

                  少年は腹立たしげにため息をついた。
                  そして一人になると、まだ床に寝ているベラを抱き上げるために手を伸ばした。
                  それがベラにとっては最後のチャンスだった。

                  「ん?」

                  次の瞬間、目を開けたベラが少年の顔に向かって蹴りを入れた。
                  少年の顎にハンマーで殴られたような衝撃が走った。
                  彼が倒れた隙に馬車から素早く飛び降りたベラは、男たちが消えていった方向とは反対方向に逃げ始めた。

                  「この野郎!」

                  気絶したと思っていた少年は吐き気とともに起き上がり、ベラを追いかけた。
                  そこから激しい追撃戦が始まった。
                  ベラは道も分からないまま暗い夜の林道を振り返りもせず駆け抜けた。
                  薬草の毒が全身に広がっている状態でもベラは驚くほどに速かった。
                  先天的に身体能力が人並み外れているおかげだった。
                  しかし追いかける少年も速かった。
                  彼もまた彼女を逃したら先輩団員たちに殺されるという思いから必死に距離を縮めてきた。

                  月明かりの下で林道をどれだけ走っただろうか?
                  ふとした瞬間、ベラはこの道は間違っていると感じた。

                  それはおかしな感覚だった。
                  この道の果てには結局行き止まりが出てくるという漠然とした感覚。
                  そしてそれと同時に、林道の横に伸びた稜線のような斜面を目指すべきだという衝動に駆られた。
                  一歩間違ったら命を落とす危険もある坂道だった。
                  しかし彼女の中にはすでにこの道を進まなければ少年に捕まってしまうという根拠のない確信があった。

                  ベラはその心の声に逆らうことができなかった。
                  決断とともに彼女は月明かりの差す斜面へと方向転換した。
                  後ろから少年の驚く声が聞こえた。
                  予想外の彼女の動きに対応できなかったのだろう。
                  斜面に入ると月明かりの差す面積がぐんと減った。
                  そのうえ下り坂の加速度までついたせいで、一歩一歩慎重に踏み出すことすらままならない状況だった。
                  しかしそんな悪条件の中でもベラはずんずんと正確に目指す場所へと足を伸ばした。
                  もう立ち止まるという選択肢はなかった。
                  下り坂が終わるまで彼女は休まず走った。

                  坂道が終わって平地に辿り着いた時、彼女の前に現れたのは林道の間に隠されていた小さな洞穴だった。どうしてこんなところに洞穴が?という疑問が自然に浮かんだが、疲れた彼女にはそれほど重要な問題ではなかった。彼女は即座に洞穴の中に潜り込んだ。自分を追ってくる者の足音はそれ以上聞こえなかった。もう逃げなくていいという安堵感が彼女の意識を温かく包み込んだ。洞穴の壁に頭をもたせかけたまま、彼女はいつの間にか眠ってしまった。

                  「えぇい、くそっ。確かにこの辺りなのに。」
                  「まったく。もう何日目だよ。そろそろ何か見つけろ!遅れたら違約金を払わなけりゃならないんだぞ。」

                  洞穴にも太陽の光が徐々に差し込む頃だった。
                  ベラは洞穴の外で言い争う二人の声で目を覚ました。
                  まさか傭兵団がもうここまで。

                  「そんなことは分かっている!」

                  グウゥゥ…。
                  こんな状況でもちゃんとお腹はすくんだな。
                  気がつくとベラは寒くて眠くて空腹だった。
                  お腹は何日も食べていないようにグウグウ鳴り、夜露のせいで全身がびっしょり濡れて風邪を引きかけていた。
                  傭兵団でも何でもいいから、一刻も早く洞穴の寒さから抜け出して太陽の光を浴びたい気持ちだった。

                  「とにかく今日こそは何か見つけるぞ!分かったな?」

                  洞穴の外の二人は傭兵団かもしれないと思ったが、ベラはこれ以上耐えられなかった。
                  昨日あんな目に遭ったんだから二度目はないだろう。
                  自暴自棄にベラは洞穴の外へ出た。

                  「あの、何か食べ物をくれませんか?」

                  森の中から突然ベラの顔が出てくると、洞穴の外の二人は悲鳴を上げた。

                  ベラの手にはバターがたっぷり塗られたパンが握られていた。
                  二人の旅人が彼女にくれた食糧だった。
                  最初はうろたえるあまり天に向かって祈っていた二人だったが、彼女が一部始終を説明すると次第に落ち着きを取り戻した。

                  「あの、この近くに海辺の村は……。」

                  しかし話が続くにつれ、二人はベラよりも昨晩彼女が泊まった洞穴に興味を持ち始めた。

                  「おい、もしかしてここが……」

                  洞穴の入口を見つめていた二人の目が大きく見開かれ、何かを話そうとしていたベラを置いて自分たちだけで洞穴の中に入っていってしまった。
                  そしてしばらく姿を見せなかった。

                  置いていかれたベラは二人が分けてくれた食糧を食べながら午後の日差しを満喫することにした。
                  すでに食べ物は手に入れたので、二人がいつ帰ってこようと彼女はあまり気にしなかった。

                  そしてしばらくして洞穴の中から二人の歓声が聞こえた。
                  洞穴から飛び出してきた二人の手には小さな遺物の器があった。

                  「こ、ここだ。ここが俺たちの探していた遺跡だ!」

                  二人は嬉しそうに笑いながらベラを幸運の女神でも見るかのように見つめた。
                  二人がなぜ喜んでいるのか彼女には分からなかったが、自分の話にも興味を示していることから悪いことではないと感じた。

                  「海辺の村?さぁ……。この辺りは山しかないと思うが。」
                  「村の名前も知らないのか?それじゃ分からないよ。海辺の村ってだけじゃ大陸だけでも数百という村があるからな。」

                  二人の反応からすると、すでに海辺の村からは遠く離れたところまで来てしまったようだった。

                  「しょうがない。俺たちもある意味お前に助けられたわけだから、俺たちと一緒に行こうぜ。」

                  ベラは仕方なく二人と一緒に動くことにした。

                   

                   

                  二人は古代王国の遺物を発掘するために世界各地を旅するトレジャーハンターだった。
                  自分が夢見ていた傭兵に幻滅したせいか、二人がトレジャーハンターだという事実を知ってもベラは別段何も期待しなかった。
                  しかし二人と旅をする中でベラは自分に存在する新しい能力を知るようになった。

                  「今回はここに行ってみたらどうでしょう?」

                  それは言うなれば強力な直感だった。
                  ベラが提案する道の先にはいつも二人が歓声を上げるほどの遺物や宝の痕跡があった。

                  「お嬢ちゃんのおかげで金持ちになれそうだよ!」
                  「ベラ、お前の勘は本当にすごい!お前なら立派なトレジャーハンターになれるぞ!」

                  そうしてベラは自然の流れでトレジャーハンターとしての生活を送るようになった。
                  故郷である海辺の村が一体どこだったのかは思い出せなかったが、トレジャーハンターはもともと各地を旅する職業だからいつかは見つけられると期待したのだ。

                   

                   

                  それから長い月日が流れた。
                  結論から言うと、彼女は未だに故郷を見つけられずにいた。
                  彼女の勘に導かれるまま海辺の村は片っ端から訪れた。
                  彼女の体からはいつも海の香りがするほどだった。
                  それなのに故郷の村はまったく見つからなかった。

                  彼女の勘が導く場所へ行くと、いつも彼女の期待より大きな何かがそこで待っていた。
                  時には古代王国の秘密が、時には魔術師たちの作った邪悪なダンジョンがあった。
                  もう彼女は欲しい物は何でも見つけられると言っても過言ではなかった。
                  それなのになぜ生まれ育った海辺の村だけは見つけられなかったのだろうか?
                  今日こそはその理由を聞かなければと彼女は思った。

                  「もっと詳しく話して。」
                  「お、お前が消えてから……あの村には山賊がやって来たんだ。」
                  「山賊?」
                  「ああ。村を守っていた傭兵団が消えたという噂を聞いて……一稼ぎしようって奴らがな。」
                  「……そんなバカげた嘘を誰が信じると思うの?」

                  ベラが再び双剣を取り出そうとすると、かつて傭兵団の末端だった男はまた頭を下げて悲鳴を上げた。

                  「ほ、本当だ!信じてくれ!俺たちが狙っていた子供たちも……村人も…全員死んだんだ。だから俺は、お前の命を救ったとも言える!命だけは助けてくれぇっ!」

                  ベラはずうずうしいことを平気で言う男の胸ぐらを掴み上げた。

                  「助けてやる代わりに、あの村に私を連れていってもらうわ。」

                  宿屋の主人はこの悪夢が早く終わることだけを祈りながらカウンターの中で身を固くしていた。
                  片方の手には二人が外出している間に神殿からもらってきた小さな女神像が握られていた。
                  先ほど、朝に宿屋を飛び出していった女性と男が一緒に帰ってきて再び出発する準備をして……いるように見えた。
                  男は今すぐにでも女性から逃げたい雰囲気だったが、そのような気配を感じるたびに女性は剣を取り出して男の背中を突いていた。

                  「逃げようなんて思わないでね!」

                  女性が叫ぶ度に宿屋の主人は気弱になった心を落ち着け、女神像を魔法のランプのようにこすりながら心の中で女神の名を叫んだ。
                  今からでも村の警備隊のところに駆けつけて女性を通報するべきだろうか。
                  宿屋の主人は一瞬悩んだ。
                  しかし女性のもう片方の剣が自分に向けられることを考えると怖気づいて動くことすらできなかった。

                  一騒動が終わり、女性と男は村の入口で馬車を捕まえて出ていった。
                  宿屋の外へ出てその光景を見守っていた宿屋の主人は、馬小屋のラバとともに馬車が遠くへ行く姿を力なく見守った。
                  ついに馬車の影が稜線の向こうへ消えると、全てが終わったことに感謝しながら二人(正確には一人とラバ一匹)は互いに抱き合って熱い涙を流した。

                  男に案内された場所。
                  そこはベラの故郷の村があった「敷地」だった。

                  村の全てが廃墟と化し、何も残っていなかった。
                  木材でできた建物や施設は全て風化してなくなり、石材でできた建物の土台と何本かの柱が残っているだけだった。
                  ただ海岸線だけが幼い頃のままだった。

                  「それじゃ、俺は…もう行ってもいいよな?」

                  男の質問にベラは答えもしなかった。
                  男はしばらく彼女の顔色を窺ってからどこかへ逃げて行った。
                  ベラにはもう男を追いかける理由がなかった。

                  ずっと故郷を探し続け、回り回って辿り着いたのが…廃墟か。
                  なんだかもやもやして、気が抜ける。

                  さあ、目的は十分果たしたし。一体、この先何をすればいいんだろう?

                  ベラの頭に思い浮かんだ悩みはそれだけだった。
                  トレジャーハンターは飽きるほど経験したし、傭兵にでもなろうかな?
                  悩んだ末に思い浮かんだ答えはどういうわけか傭兵だった。
                  あんなに憎悪していた傭兵を?どうして今さら?

                  『私、大きくなったら傭兵になるの!』
                  『前はトレジャーハンターになるって言ってなかった?』

                  遠い昔の会話をふと思い出した。
                  それから何と答えたっけ?

                  「……じゃあ、両方やればいいもん!」

                  そうだ。一度決めたことをやらない理由なんてなかった。
                  世界には自分をさらったようなクズみたいな傭兵団もあるだろうけれど、どうにかなるだろう。

                  始めから最高の傭兵団を探せばいいんじゃない?
                  心配することは何もない。
                  他はどうあれ、「勘」だけは誰にも負けないから。

                   

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                  「ベラ キャラクターストーリー」より

                   

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                  カイ :: キャラクターストーリー

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                    男は毎晩、同じ夢を見る。
                    夢はいつも決まって父の切実な叫びから始まる。

                    「早く逃げろ!お前だけは必ず生き残るんだ。いいな?約束だぞ!…クァァァッ!」

                    幼い少年の姿をした男は、壮絶な悲鳴をあとに冷え冷えとした真冬の森を全力で駆け抜ける。
                    耳元に吹きつける風の音や悲鳴、途切れる息のせいで少年の心臓は今にも破裂しそうだ。

                    どれほどの時間を走り続けたのだろう。
                    疲れ果てて目の前が暗くなる頃、少年は雪の積もったとある街の真ん中に佇んでいることに気づく。

                    「あの子が例の弓使いの息子だな?」
                    「あぁ。村の有志に殺されてしまったらしいな。税を上げたことに腹を立てて歯向かったあげくそうなってしまったらしい。」
                    「魔族らから我々を守るために必要な費用だと言うのに、何がそんなに気に食わなかったんだろう。子供のことも考えて譲るところは譲るべきだったよな。」
                    「もうすぐ大雪になるらしいし、あいつの命もあと少しかもな。」
                    「余計なことをして巻き込まれたら困るぞ。さっさと帰って冬越しの準備を急げ。」

                    少年はざわめく群集のほうへ手を伸ばしてみるが、彼らはそれぞれの家に戻り固く門を閉ざしてしまった。
                    痩せ細った少年の腹が弱々しく音を鳴らす。

                    次の瞬間、少年は吹雪の中、別の街の酒場の前に座り込んでいる。
                    すでに一週間何も口にできなかった少年にとって、身を切る寒さはもう感じられない。
                    内臓が溶け落ちるような凄まじい飢えが少年の身を支配していた。

                    少年の耳元に、父の叫ぶ声が聞こえてくる。

                    『約束だぞ。お前だけは必ず生き残るんだ。必ず生き残るんだ…!』

                    お父さん、ごめんなさい。約束を守れないかもしれない……。
                    少年は何度も目に力を入れて強烈な眠気と戦う。
                    しかし、今日が最後かもしれないという嫌な予感が、少年の最後の意志さえもゆっくりと折りかけていた。

                    その時だった。突然少年は鼻の奥を刺激するような匂いにパッと目を覚ます。
                    気配もなく近づいてきた黒ずくめの見知らぬ男が、少年の目の前に一切れのパンを突きつけた。
                    少年は必死にパンを掴み取ろうとするが、素早く後ろに隠されてしまう。

                    「君、腹が減っているんだな?食べたければこのパンをやるよ。その代わり、俺の頼みを一つだけ聞いてくれ。どうだ、できるか?」

                    何かに取り憑かれたような顔でひたすらうなずく少年。

                    「あそこの酒場の中には悪者がいる。俺はその人にとても大切なものを奪われているんだ。もし君が奴を少しだけ傷つけてくれれば、その間に奪われたものを取り返してくるよ。」

                    男は少年の手に短剣を握らせた。

                    「何をすればいいか、説明しなくてもわかるな?」

                    少年はしばらく短剣を見つめた。
                    少年の頭の中に、ふと父の教えが浮かんだ。

                    『息子よ、肝に銘じておけ。人を傷つけることは、結局自分自身を傷つけることだ。』

                    しかし、鼻の中に充満したパンの匂いと内臓を絞られるような強烈な飢えで、少年の理性はすでに麻痺していた。

                    「さあ、行け。」

                    男に背中を押され、少年はゆっくりと酒場の中へ入る。

                    「よくやった。思ったよりも素晴らしかったぞ。まさか短剣を投げて命中させるとはな。」

                    少年は下を向いたまま男のほうに手を差し出した。

                    「あぁ、そうだな。君のパンだ。これからも何かあったら頼みに来るよ。俺の言うとおりにさえすれば食べることには困らないと思うぞ。じゃあまたな。それまでしっかり生きているんだぞ。」

                    黒ずくめの男は笑みを浮かべたまま、闇の中へ消えていった。

                    少年は慌ててパンを口に詰め込んだ。
                    電流が流れるように、身の隅々まで甘い香りが広がっていく。
                    俺は生き残った。お父さん、俺はこれでお父さんとの約束を守ることができます。
                    少年の顔に微かな安堵の笑みが浮かびあがる。
                    しかし同時に、少年は自分が涙を流していることに気づく。
                    これほど美味しいパンを食べているのに、なぜ自分は泣いているのだろう。
                    あの男にさえちゃんと従えば必ず生き残れるはずなのに。
                    …どうしてお父さんの悲しそうな目ばかり頭に浮ぶのだろう。 

                    『…肝に銘じておけ。人を傷つけることは、結局自分自身を傷つけることだ。』

                    その時はまだ、少年はその意味を理解することができなかった。

                    男は毎日、同じ夢で目が覚めた。
                    あの日以来、彼は一度も熟睡していなかった。
                    また今日も同じ夢か…。

                    古びた小窓の外から、ゆっくりと朝日が昇っていた。
                    あれから随分と月日が流れ、かつては少年だった彼の眉間には深いしわが刻まれていた。
                    しかし彼は、未だにあの瞬間のことを鮮明に覚えている。
                    むしろ記憶は時が経つほど鮮烈になり、決して色褪せることはなかった。

                    しかし、相変わらず男は気づいていなかった。
                    あの時自分の身は救われたが、魂は粉々に砕け散ってしまったということを。
                    鏡に映った生気のない目は、常に強烈な自己嫌悪でいっぱいになっているということを。
                    そうやって「壊れた男」は、いつものように軽く支度をして部屋を出る。これが毎日繰り返される男の朝だった。

                    ドーン。
                    机の上に、血だらけになった魔族のものとみられる戦利品が鈍い音を立てて落ちた。
                    向かい側に座っている老人は、感心した顔で品と男を交互に見た。

                    「やはり素晴らしい。君は一度たりとも俺を失望させたことがない。これを求めてどれほどの人が深手を負ったか…。」

                    男は老人が差し出した金貨の袋を胸元に入れた。

                    「まぁ…君が物の価値を気にするような者だったら、これを持って逃げただろうね。君がただの刺激を求める人間で本当に助かったよ。では、今回の件もよろしく頼むぞ。さほど難しくないはずだ。」

                    老人は貪欲な笑みを浮かべながら男に依頼書を渡した。
                    男は紙を受け取り、無言で暗い部屋をあとにした。

                    真昼にもかかわらず、街の路地にはまったく光が差し込んでいない。
                    しかしそのおかげで、男の身体が血と汗にまみれていることに気づく者もいなかった。
                    煙たい空気とかすかな鉄の匂いは、吸い込む度に肺の中に粘っこく張りついてくる。
                    男は近くの井戸で適当に身体を流した。

                    実のところ彼は、自分の労働に対する報酬があまりにも少ないことに気づいていた。
                    しかし、彼にとって金はあまり重要なものではなかった。
                    だが、かといって老人の言うように、殺戮の刺激などを好んでいるわけでもなかった。
                    彼はむしろ不必要な殺戮を嫌っていた。

                    彼が求めているのは単に、人並みに食べられて、人並みに眠ることだった。
                    平凡な行為を繰り返していることそれ自体が、彼にとっては一日一日を生きている証のようなものだった。
                    しかし、平凡な日常を真似ているだけで、それは本当に「平凡な日常」を暮らしていると言えるのだろうか。
                    実は、彼の追求している人生がどこか間違っているということを、彼自身も薄々感じていた。
                    しかし、彼はすでに長い歳月を黒ずくめの男に従い、「裏稼業人」として生きてきた。ゆえに、こういった矛盾さえも彼にとっては日常であった。

                    彼は静かに目を開いた。
                    複雑に絡んだ思念を振り払おうと、彼は先ほど老人から受け取った依頼書を広げた。
                    『寿命を延ばし、若さを取り戻してくれる秘薬の材料。村の北西の森、夜にだけ出没する血を吸う者たちの骨…。』
                    最近こういう類の依頼が増えてるな。

                    寿命と若さか…。
                    長い戦争で荒れ果てた中でも、人間の根本的な欲望や貪欲は衰えを見せない。
                    いつもそうだった。ふと、彼は黒ずくめの男の言葉を思い出した。

                    『人間は自分のためだけに生きる存在だ。そのおかげで我々のような影も生きていける。』

                    なるほど。だから俺も今こうやって生き延びることができているわけだ。
                    彼は眉間にしわを寄せ、呟いた。
                    俺、無駄なことばかり考えてるな…。
                    彼は急いで弓と矢、依頼に必要な道具を揃えて街を発った。 

                    暗く湿った森の中、男はすでに数時間じっと獲物が来るのを待っていた。

                    月明かりさえない闇夜だった。
                    やがて素早い足音とともに黒い物体が次第に姿を現した。
                    …一体か、他に仲間はいないようだ。
                    男は茂みに隠れたまま、獲物が捕えやすい位置に来るのを待った。

                    彼が立てた計画はこうだった。
                    まずは矢を頭に貫通させ、獲物を倒れさせる。
                    その後、すぐに矢の嵐を浴びせ、確実に行動不能にする。
                    そして獲物に近づき、素早く狙いの物を奪い取る。
                    緊急事態が発生した場合は、あらかじめ仕込んでおいたワイヤーで脱出する。
                    単純な流れだが、これは多くの場面で確実に効果を発揮してきた作戦だった。
                    いつものように、今日も上手くいくだろう。

                    彼はゆっくりと静かに長い弓を構え、黒い物体の頭に向かって勢いよく矢を放った。

                    「キヤァァァッ!!!」

                    森の中から断末魔の悲鳴が上がった。
                    命中だった。
                    矢一発で黒い物体は音とともに倒れた。
                    続いて男は、空高く矢籠を投げた。
                    倒れた獲物に向かって、降り注ぐ矢の嵐が黒い物体の全身をバラバラに引き裂いた。
                    彼は素早く黒い物体に近づき、力強く上半身を蹴り上げた。
                    倒れた体は微動だにしなかった。
                    計画通りだな。
                    男は黒い物体をじっくり観察した。

                    今まであらゆる魔族を見てきた彼にとっても、これほど完全に骨だけで成り立っている魔族は初めてだった。
                    まるで死骸から感じられるような、虚しさと不快な死のオーラが漂っていた。
                    男は急いで骨を集め始めた。

                    その時だった。彼の背後から冷ややかな寒気が感じられた。
                    しまった…。彼は手を止め、全身の神経を集中させた。
                    一、二、三、四…。ちくしょう、数が多すぎる。
                    奴らはすでに危険を感知し、暗闇の中で気配を隠していたのかもしれない。
                    徐々に包囲網を狭めてきていた。

                    少しでも隙を見せれば、奴らは瞬時に襲い掛かって、彼を引き裂いてしまうだろう。
                    幸いにも、彼にはこのような状況を想定して仕込んだワイヤーがあった。
                    男はそっと手に持っていたワイヤーを握った。
                    チャンスはたった一度だけ。
                    彼は深呼吸をした後、力強く綱を引いた。

                    強く反動するワイヤーが男の体を持ち上げようとしたその瞬間、想定外の事態が起こった。
                    倒れていた魔族の手の骨が、彼の手首をぎゅっと握り締め、強く引き寄せ始めたのだ。
                    慌てた男が魔族のほうを振り向くと、
                    矢を浴びて散らばった骨が再びまとまって元の形に戻ろうとしていた。

                    彼は握られた手首の上から魔族の手の骨を矢で突き刺した。
                    しかし、手の骨はさらに強く手首を縛りつけてくる。
                    男の目に、魔族の砕けた頭の骨が見えた。
                    魔族はまるであざ笑うかのように彼の目を見つめている。

                    男は、自分がらしくないほど油断していたことに気づいた。
                    なんだか可笑しかった。そういえば今日は余計なことばかり考えていた…。
                    彼の唇が、失笑で歪んだ。
                    敵たちはもう男のすぐ後ろまで来ていた。
                    彼はゆっくりと目を閉じ、今はぼんやりとした記憶の中の父の言葉を振り返った。

                    『お前だけは必ず生き残るんだ。いいな?約束だぞ!』
                    男は必死になって脱出する方法を考え続けた。俺は生き残らなければならない。生き残らなければ…!

                    その瞬間、頭に鋭く鈍重な痛みが感じられた。
                    視界が一瞬ぼやけ、徐々に身の回りのすべてが遠のき始めた。
                    必死に意識を保とうとするが無駄な足掻きだった。
                    だんだん周りの光が消えていく中、彼は一瞬眩しい「光」のようなものを感じた。 

                    目を覚ますと同時に、頭が割れるような頭痛が襲ってくる。
                    傷からにじみ出た血はまだ固まっていない。
                    どうやら気を失ってからさほど時間が経っていないようだ。

                    一体何があったのだろう。
                    そしてあの眩しい光は…
                    「光」…?
                    男は慌てて顔を上げた。
                    目の前の光景は、これまでの人生で一度も見たことのないものだった。

                    月の光さえ遮られた漆黒の闇の中、
                    違和感を覚えるほど眩しく光る鎧を着た者が男を守護するように背を向け、次々と襲い掛かる黒い存在を打ち払っていた。
                    まるでこの世のものではないような、強烈な光を放つ剣が描く軌跡は、息詰まるほど美しく、同時に驚くほど脅威的だった。
                    光の剣が敵の攻撃を打ち返すたび、段々と彼らの戦意も失われていくように見えた。
                    そして遂に、敵たちは一人残らずその場を去っていった。

                    男は呆然と、眩しい鎧を着た者の後ろ姿を眺めていた。
                    視線を感じたのだろう、鎧を着た者も彼のほうを振り返った。
                    その瞬間、眩しすぎるほどの光に彼は思わず手で目を覆った。

                    男が再び目を開けると、もうそこに光の鎧はなかった。
                    ただ、風に長い髪をなびかせながら自分のほうに手を差し伸べる一人の剣士の姿があった。

                    「…お怪我は大丈夫ですか?」

                     

                     

                    「…貴方、最初から全部見ていたのですね?」

                    長い沈黙を先に破ったのは彼女だった。
                    男は小さくうなずいた。

                    「やはりそうでしたね。気を失われていたので何も見ていないのかと思いました。」
                    彼女は困ったような表情を見せた。

                    「でも、もしあのまま放置していたら貴方は死んでしまったはず。その状況を見過ごすわけにはいかなかったのです。」

                    彼女は優しい手つきで何度も彼の傷に薬のようなものを塗った。

                    「よし、このくらいしておけば傷が深まることはないでしょう。」
                    「…ありがとう。」

                    男が枯れた声で答える。
                    彼は誰かと会話を交わすことに慣れていなかった。
                    彼女は返事の代わりに、彼の顔を見て軽く微笑んだ。

                    「貴方は、傭兵ですか?」
                    「傭兵なんかより遥かに後ろめたい仕事をやっている。」
                    「まあ、そうでしょうね。傭兵は普通、命をかけるほどの無謀な依頼は引き受けませんから。貴方はきっと、裏稼業なのでしょう。」

                    彼女の言葉に、男はふと自分の任務を思い出した。慌てて周辺を見回してみる。

                    「これを探しているのですか?」

                    彼女の手には男の獲得した物が握られていた。
                    男は慌てて取り返そうとするが、素早く後ろに隠されてしまった。

                    「実は…私には正体を明かしてはいけない事情があって…。しかし結局、貴方を救うために姿を現してしまった…。もしも貴方が今日の事を口外してしまったら、私はおしまいです。」

                    星の光を反射する彼女の美しい瞳が彼を見つめている。

                    「…俺は口数の多い人間じゃないから。」
                    「そうでしょうね。しかしそれだけでは足りません。これは私の命がかかった問題ですから。」

                    眉間にしわを寄せる男。

                    「俺にどうしてほしいんだ?」
                    「しばらく私の隣で護衛をしてもらいたいのです。毎日行動を共にすれば、私の秘密がばらされる心配もないでしょう。」

                    面倒なことに巻き込まれちまったな…。男は深いため息をついた。
                    しかし、彼女は自分の命の恩人。それだけは否定することができなかった。

                    「…いいだろう。」
                    「助かります。これで少しは安心できますわ。」

                    彼女は安堵の笑みを浮かべ、男に獲得物を渡した。

                    「明日の午後、またここで会いましょう。約束ですよ、必ず守ってくださいね。」

                    彼女は彼と軽く目を合わせ、暗い森の中へ姿を消した。

                     

                     

                    男はしばらくの間、呆然とした顔で彼女の消えた方向を眺めた。
                    あまりにも多くの事象が一気に絡み合ったせいで、頭の中が全く整理できずにいた。
                    宿屋のカビ臭いベッドに身体を横たえてから、ようやく彼は一つの事実を悟る。
                    今日初めて、彼が積み重ねてきた「平凡な日常」に亀裂が生じたのである。

                    男は混乱していた。
                    なんとか頭の中を整理しようとするが、到底抵抗できないほどの疲労感が襲ってくる。
                    彼の目はゆっくりと閉じられていった。

                    不思議なことにその晩、男は複雑な心境とは裏腹に、実に久しぶりの深い眠りにつくことができた。

                    その日から、男は彼女とともに行動し始めた。
                    主に彼女が行動をし、男は少し離れた場所で彼女を見守る形をとっていた。
                    劇的だったともいえる彼女との遭遇に劣らず、新しい日常も彼にとっては劇的なものだった。

                    彼女は、昼間は主に平凡な人々に混じっておしゃべりを楽しんでは、困っている人々を捜し回っていた。
                    そして夜になれば、彼女は単独行動を始める。
                    男はただ、彼女が行く先の周辺で待機しながら、近くに危険が潜んでいないかを見張る役割を担っているだけだった。
                    彼女は一度も男に自分のことを話さなかった。
                    何をしているか知らされないまま相手に付き添うこと自体、愉快なことではないし、あの日に見た光の鎧についても気になることは山ほどあったが、やはり男も彼女に何かを尋ねることはしなかった。
                    依頼人と依頼の内容に疑問や好奇心を持つのは、老練な裏稼業らしくないと思ったからだ。

                    ただ、彼は数日間彼女の傍にいて、いくつかの事実を知った。
                    彼女の職業はスパイ、またはそれに似た何かである。
                    彼女は一日のうち多くの時間を、ある手がかりや情報を探ることに費やしていた。
                    情報の内容が何に関するものなのか、どのくらい重要なものなのか、誰と繋がっているものなのかを把握することは困難だったが、彼女はその情報を得るためならどんな危険も顧みなかった。

                    彼女は決して不義を見逃さない人だった。
                    誰かが困難な状況に置かれたり不当な扱いを受けていると、彼女は率先して助けに向かった。
                    誰かを助けるためなら、彼女は自分の大切な宝剣さえも迷いなく差し出そうとするほどだった。
                    男は一日に何度も、彼女が余計なことに時間をかけないよう止めなければならなかった。

                    彼女は生きている全てのものを愛した。
                    道端に咲いた草一本に対しても感嘆の言葉を述べながら注意深く眺めたりした。
                    不思議なことに、彼女は決して魔族のことを警戒したり恐れることはしなかった。
                    むしろ、魔族に対してとても好意的であった。
                    時おり彼女は、男の前で情熱に満ちた顔をしながら和合について説いた。

                    「命あるものは全て美しく、平等です。魔族も人間と同じ。どちらかが先に心を開いて歩み寄れば、深い溝は埋まり、結束と和合の時が来るのです。」

                    実際、彼女は魔族と対面することがあれば、彼女から先に魔族の言葉で話しかけていた。
                    こういった幼稚な挑戦は多くの場合険悪な結果をもたらしたが、稀に平和な雰囲気の中で話が進んだりすると彼女はこの上なく幸せそうな表情を浮かべていた。

                    男はこれまで一度も、彼女のような「正義の味方」とされる類の人間像を見たことがなかった。
                    長い間、人間の利己心と貪欲さに向き合ってきた男にとって、人間とは自分のためだけに生きる存在にすぎなかった。
                    少なくとも彼の今までの付き合いの中では一人の例外もなかった。
                    きっと彼女も、自分がより良い世の中を作るという、薄っぺらい欲望を満たすために、自分のやり方で人生を生きているだけなはずである。
                    他の人々と同様に。

                    …しかしそうだとしても、どうして彼女の行動一つ一つがこんなにも気になるのか、なぜこんなに複雑な気持ちにさせられるのか。
                    彼は混乱していた。

                    ちょうどその時、離れた場所にいた彼女が男に向けて軽く手を振った。
                    これを見た男はなぜか腹立たしい気持ちになる。
                    面倒だな、借りを返し終えたらすぐにここから離れよう。彼はそう決めた。
                    そんな男の心を知るはずもない彼女の明るい笑みは、仄暗い街の情景とは対照的に眩しく、暖かかった。

                    それから更に時が経った。
                    男は相変わらず彼女のそばを離れずにいた。

                    「貴方は私の一挙一動が不満なはずなのに、どうしてずっとそばにいるのです?」
                    「…こんなくだらねぇ仕事じゃ命の恩返しもできないと思うが。」

                    男は無愛想に言い返した。
                    相変わらず彼にとっては彼女の行動一つ一つが目障りだったが、かといって彼女の元を去りたいとも思わなかった。
                    彼女はそんな男を見て笑っていた。

                    いつものように男の夢は繰り返され、相変わらず毎晩眠れない夜が続いていた。
                    しかし、男の目つきには変化があった。
                    彼の目に、以前はなかった生気が漂い始めた。
                    彼女は以前よりも単独で行動する時間が増え、そのため男も一人で過ごす時間が長くなった。
                    たまには仕事を求めて仲介人の老人を訪ねたりもした。
                    彼の仕事ぶりは相変わらず老練でミスがなく、いつも老人を満足させていた。
                    しかし男は、これ以上このような仕事で「日常」を生きるという実感を味わうことができなかった。
                    むしろ、以前の生活を繰り返すほど虚しさだけが増していくような気分だった。

                    「おじさん、その花、きれいですね。」

                    彼が考え込んでいると、いつの間にか近づいてきた一人の子供が、男の手にある花を欲しそうに見ている。
                    男は子供に花を渡した。
                    子供は嬉しそうな顔で花を握り、向こう側に走り去った。
                    その後ろ姿を眺める男の口元に、穏やかな笑みがこぼれる。
                    その微笑みは、どこか彼女のものと似ていた。

                    さあ、今日は数日ぶりの彼女との再会。
                    彼は急いで森のほうに向かった。

                    夕日の差し込む森の向こうから、日差しをたっぷり浴びた彼女がゆっくりと姿を現わした。
                    …ん?どこか様子がおかしい。
                    彼女は足を引きずりながら彼のほうに歩いてきていた。
                    心臓が止まりそうなほどの驚きを受けた彼は、すぐさま彼女の元にに駆けつけた。
                    近くで見た彼女の状態は思ったよりも深刻だった。

                    衣服の袖は鋭い何かによって引き裂かれ、細く固い腕は何十個もの擦り傷で埋め尽くされていた。
                    男の手が震え始める。
                    他の何より、彼女の白い頬を横切る切り傷を見ると、腹の底から怒りがこみ上げてきた。
                    まるで自分の頬を切られたような辛さだった。

                    「ふふ、こんな格好で申し訳ないわ。でもかなり収獲はありましたよ。」

                    重い沈黙を破り、彼女は軽快な声で男に話しかけた。
                    どうしてこんな風に笑えるんだろう。男は理解に苦しんだ。
                    喉の奥から何か熱いものがぐっとこみ上げてくる。

                    「少しだけ、もう少しだけ頑張れば…」
                    「あとは…」

                    男は彼女の言葉を遮った。

                    「正義の味方を気取るあなたの姿、これ以上見たくないから。」

                    彼女は驚いた表情で男の顔を見た。
                    今まで溜め込んでいた冷笑が、速射砲のように彼女へ降り注がれた。

                    「あなたは単なる一人の人間だ。俺の知る人間とはいつも自分のことだけを考え、自分の欲望に従って行動する利己的な存在。あなたが正義感と勘違いしているその偽善も結局、薄っぺらい自己満足に過ぎないんだよ。俺の目には、他人にちょっかいを出したり、死地に身を投げるあなたの姿は、正義や大義のための崇高なものには見えない。それはただの、欲望を果たすために徹底的に計画された自分勝手な足掻きだ。…だからもうやめておけ。」

                    話を終えると、彼女は静かに彼の顔を見つめていた。
                    彼女は動揺することも、腹を立てることもしなかった。
                    ただ、その目からにじみ出る寂しさのようなものが、彼女の心境を少し覗かせていた。

                    二人の間に、長い沈黙が続いた。

                    「…では、また会いましょうね。今日貴方に再会できて嬉しかったです。」

                    低い声で別れを告げると、彼女は再び足を引きずりながら、ゆっくりとその場を去った。
                    そして翌日、彼女は男の前に姿を現さなかった。
                    翌日も、その翌日も、彼女が現れることはなかった。

                    彼女が姿を消してから、男は再び以前と同じ日常に戻った。
                    カビ臭い宿屋や長い夜、例の夢も、すべてが以前と同じだった。

                    ただ一つ、男自身だけが以前とは違っていた。
                    彼女が隣にいない喪失感がこんなにも大きいものだとは、彼自身も全く予想していなかった。
                    彼はそれ以降、生きる意味を見失ってしまった。

                    男は目をつぶって彼女の顔を思い浮かべた。
                    穏やかな微笑み、風になびく髪、目に映る全てのものを愛おしく見つめていた暖かい視線。
                    自分のために身を挺して戦っていた光の剣士。
                    男がこれまで一度も経験することのできなかった世界。
                    自身の欲望ではなく他人のために、正義と信念を持ちながら前進する世界。
                    その世界の中心に、いつも誠実に立っている彼女がいた。
                    自分が遠い昔に夢見たかもしれない理想に向けて、正しい道を進む彼女。
                    もしかすると俺は、彼女に初めて会ったあの夜からずっと、彼女に憧れていたのかもしれない。
                    いや、憧れじゃなく「妬み」だったのかも…。

                    すると男の頭の中に、寂しそうに立ち去る彼女の後ろ姿が浮んだ。
                    …俺は彼女にひどいことをしてしまった。

                    男はいつも彼女と待ち合わせしていた森に向かって走り始めた。
                    彼女がいつまた現れるかわからないが、彼はいつまでも待つ覚悟ができていた。

                    男は呼吸を荒げながら森に着いた。
                    素早く一度周囲を見回してみる。
                    やはり彼女の姿はない。

                    彼は近くの石の上に腰かけた。
                    満月の眩しい光が、日中のように明るく周りを照らしていた。月明りを浴びた木々たちが仄かに輝いている。
                    森は、あの日の激しい戦いを全く思い出させないほど美しかった。

                    その時だった。どこかから気配が感じられる。
                    男は神経を集中させた。
                    彼女なのか?それとも魔族か?
                    男の心臓が狂ったように打ち出した。
                    彼は気配を追いながら、慎重に体を動かした。
                    そしてその瞬間、彼の表情が歪んだ。

                    そこに彼女がいた。
                    悲惨な姿で木に寄りかかり、血を流していた。人の気配を感じた彼女は辛うじて目を開けた。

                    「あ…貴方…。」

                    苦しみに満ちた顔で、彼女はいつものように微笑みながら彼に挨拶をした。

                    「嬉しい、久しぶりね…。」

                    男は彼女が楽な姿勢を取れるよう、周りを整理した。
                    一目で彼女の怪我が尋常なものではないと分かった。
                    腹部の傷口からは、何度も鮮血がしみ出ていた。

                    「…驚かせてごめんなさい。今回はもう少し深くまで入り込んでみました。一人でも大丈夫だろうと思いましたが…結果はこのザマですね。」
                    「なぜすぐに手当てしに行かなかったんだ。」
                    「言ったでしょ、私は秘密の多い人間なんです。…何より、ここに来れば貴方がいると思ったから。」

                    彼は彼女の身体にできた傷に丁寧に薬を塗った。
                    その姿を見た彼女が静かに笑った。

                    「…何が可笑しいんだ。」
                    「いえ、なんとなく。貴方に初めて会った時のことを思い出しました。今回は私が貴方に助けてもらっていますね。」
                    「別に当たり前のことだ。俺はあの時の借りを返しているだけだから。」

                    彼女は男の顔をじっと見つめた。
                    彼女の視線を感じた男の顔が赤く染まり始める。

                    「…この前はすまなかった。」
                    「気にしないで、貴方は間違ったことなんて言ってないわ。」
                    「……。」
                    「今まで貴方に隠していたことがあります…。実は私、ある出来事の真実をずっと追っているんです。詳しいことは言えませんが、これは間違いなく人間と魔族の両方を危険にさらすことになります。その危険から皆を守るために、私は自分の全てを捧げる覚悟ができています。それが…私の信念だから。でも、あの時貴方の話を聞いて…私は一度自分自身を振り返ってみました。もしかすると貴方の言う通り、私は自分の満足のために、ただ自分の気持ちを楽にするためにこういう事をしているのかもしれない。いえ、本当はもっと前から分かっていたのかも。私がいくら頑張ったところで結局、変わらないものは変わらないということを…。」

                    しばらくの間、二人は沈黙した。
                    初めて向き合った彼女の不安と自嘲を前に、彼はかける言葉が見つけられずにいた。
                    その時、彼女が静かに、そして決意に満ちた声でこう言った。

                    「でも…、でも私は、今後も立ち止まらずに前へ進みます。私の小さな行動によって、誰かの人生を変えることができるのなら、それがたった一人であっても、仮に薄っぺらい自己満足のための行動であっても、価値はあるはず。」

                    男は虚を突かれたような顔で彼女を見つめた。
                    決然とした目、白い頬の傷痕、鍛錬された小さな肩。彼女が掲げている崇高な理想の重さを、彼はひしひしと感じることができた。
                    泥のような人生の中でもがき続けている自分、しかし彼女は違う。
                    高潔な信念を身にまとった者。
                    光の鎧がなくても、存在自体で輝くことができる者。

                    俺は…彼女に憧れている…。
                    彼女のように生きていきたい。
                    俺は彼女のことを……。

                    視線を落とす男。
                    今さら光に向かって進むなんて、自分はあまりにも遠くまで来てしまった。
                    彼女に比べて俺なんかはあまりにも…。

                    でも…、気持ちぐらい伝えても良いだろう。
                    彼はゆっくりと話し始めた。

                    「…俺は…実は、ずっと昔から毎晩同じ夢を見ている。」

                    今度は彼女が驚いた表情で男の顔を見つめる。
                    男は人生で初めて、誰かに自分のことを率直に打ち明けた。
                    毎晩繰り返される少年時代の記憶、黒ずくめの男との出会い、父と交わした最後の約束、他人の欲望を代行し、歪んだピースを強引にはめるように繋いできた人生。

                    彼女は静かに彼の話に耳を傾けた。
                    誰かの前で話し、それを聞いてくれる人がいることで、こんなにも気持ちが楽になるとは思ってもいなかった。

                    「…あなたに出会ってからやっと気づいたんだ。あなたが持つその信念のおかげで、この世の中はまだ清く保たれている。そして俺も、初めて自分自身を振り返ることができた。俺は…あなたとは比べられないほど器が小さく惨めな者だ。一日一日を、夢もなくただ彷徨うように生きている。」
                    「……。」
                    「今さらあなたと同じ道を歩むことはできない。でもあなたのおかげで、今は人生を『生きる』意味について少しはわかった気がするよ。」

                    彼の顔に薄い笑みが浮かんだ。

                    「…俺は口下手な人間で、うまく伝えられているかわからないけれど…ありがとう。」

                    すると、突然彼女が男の両手をぎゅっと握った。
                    両手に暖かい温もりが感じられる。驚いた男は彼女の顔を見た。
                    彼女は…、彼女は涙を流していた。

                    「…なぜ…。」

                    彼女は彼の手を引き、自分の胸に精一杯抱きしめた。
                    彼女から柔らかな香りが感じられた。

                    彼女は男にささやいた。

                    「もう大丈夫だから…大丈夫よ…。」

                    優しい声が彼の心に触れ、穏やかな波紋を起こした。

                    「短い人生でたくさんの苦痛を独りで耐えて来たのね。辛かったでしょう…。でもね、それは貴方のせいじゃないわ。」

                    彼は目をつぶった。
                    まるで遠い昔、冬の森を駆け抜けていた少年の頃に戻ったような気分だった。

                    「だから、もう頑張らなくてもいいわ。貴方はこんなに立派な男性に成長している。約束を守ることもできた。もう解放されていいのよ。そして、これからは貴方のためだけに生きて…。」

                    温かいその一言に、胸の中に無理やり積み重ねられてきた、しこりの壁が一瞬で崩れ落ちた。
                    男はなぜか声を出して泣きたくなった。
                    しかし、ずいぶんと昔に乾いてしまったのか涙は出てこない。
                    そんな彼の気持ちを理解したかのように、温かい手が男の背中に回って、ゆっくり優しくさすり続けていた。
                    二人は互いの体温で癒し合い、しばらくの間抱き合っていた。

                    月明かりが照らすある夜、
                    果てしない雪道を駆け抜けていた少年にもようやく春が訪れた。  

                     

                     

                    空は高く、日差しは暖かかった。
                    草の匂いをのせた風が男の体を包み込む。

                    全てが新しく感じられた。
                    レンガの隙から咲いた雑草さえも美しく、生気に満ち溢れていた。
                    そして振り向くと、ほんのりと頬の赤い彼女が男を見つめている。

                    男は彼女に向かって微笑んだ。
                    彼女も応えるように明るく満面の笑みを見せる。
                    男も女もそれぞれの荷を下ろして、しばらく二人だけの時間を楽しんだ。
                    毎日が充実していて、光に満ちた日々だった。
                    男は少しずつ未来のことを考え始めた。
                    今までは未来を思い描くことも、そうする必要もなかった。しかし今はすべてが変わった。

                    そして、ようやく彼にも、自分なりのやり方で少しずつ世の中を変えられるという確信が芽生えた。
                    彼女が言ったように、小さく価値のなさそうに見える努力でも、誰かの人生を変えることができるのなら、
                    きっとそれは意味のある人生と言えるだろう。
                    男は明日の依頼を最後に、今まで続けてきた陰の人生に終わりを告げると決めた。
                    生き残るという約束はすでに守られている。もうこれ以上思い残すことはない。

                    男の決心を聞いた彼女は心から喜んでくれた。

                    「本当におめでとう。貴方が自分らしい人生を生きることができるようになってすごく嬉しいわ。」

                    彼女は優しく男の髪を撫でた。

                    「実は私も、貴方に話したいことがあるわ。今夜、私は北に向かうことにしたの。とても決定的な手がかりが見つかってね。あと少しだけ探れば、全貌が見えてきそうなの。」
                    「……。」
                    「私はここで立ち止まるわけにはいかない。この時だけのために今まで頑張ってきたんだから。」

                    そう、彼女は目標に向かって前進する者だった。夢のような日々に浸ってしばらく忘れてしまっていた。

                    「これですべてが明らかになるはず。今回行ってきたら、貴方にも私が追っていたものについて、少しは説明できると思うわ。」

                    確信に満ちた声、真っすぐな視線。
                    信念を語る時の彼女は、いつも美しかった。

                    「…どんな話を聞かせてくれるか、楽しみだ。」

                    一瞬笑顔を見せる彼女。

                    「貴方には想像もできないことだわ。」

                    その日の夜はいつもよりも早く訪れた。

                    「明日のこのくらいの時間に戻ってくる予定よ。待っていてくれるよね?」

                    彼は小さくうなずいた。
                    しかし、なんだか嫌な予感がする。
                    彼女をこのまま送ってはいけないのではないか?
                    彼の眉間に深い溝ができた。
                    すると彼女は、男の顔を優しく撫でながらこう言った。

                    「どうしてそんな顔するの、ね。明日また会えるんだから。」

                    彼女はすぐさま後ろを向いた。

                    「幸運を祈ってね。」

                    夜が明けると、男は例の老人を訪ねた。

                    「ずいぶん久しぶりだな、君が来てくれなきゃ、こっちの商売もあがったりだ。」

                    老人は軽く文句を言いながら彼を迎えた。
                    依頼書を受け取った男はすぐにその場を立ち去ろうとした。

                    「君、最近何をして過ごしてるかわからんが、昔よりずいぶん顔色がよくなったな。」

                    彼は振り向いて老人のほうを見た。

                    「今日は魔族らの様子がいつもと違うらしいから、特別に気をつけたほうがいいぞ。」

                    男は軽くうなずいて目的地へと向かった。

                    依頼は簡単なものだった。
                    いつもより弓が軽く感じられる。
                    矢は軽快な音を出しながら敵の体に吸い込まれていった。
                    倒れている敵を見て、男は黒ずくめの男を思い出した。
                    自分を救い、同時に破壊した男。
                    でも、今まで暮らしてこられたのも彼のおかげだ。少しはありがたく思おう。
                    彼は頭を上げ、夕焼けに染まっていく空を眺めた。
                    長年続けてきた彼の日常は、これで終わりを告げた。
                    彼は身軽な足取りで、彼女と約束した森へ向かった。

                    男は切り株に腰かけて彼女の帰りを待った。
                    しかし、約束した時間を過ぎても彼女は現れない。
                    心の片隅にある一抹の不安を抑えながら、彼はずっと待ち続けた。

                    すでに夜明けが訪れようとしていた。
                    依然として彼女が戻る気配はない。
                    もう我慢の限界だ。
                    彼女は…彼女は北のほうに行くと言った。
                    彼は立ち上がり、彼女が向かった方向へと走り始めた。

                    どれほどの時間走ったのだろう。男は黒く燃え落ちた、とある邸宅の前に辿り着いた。
                    かつて邸宅だった建物は跡形もなく崩れ落ち、骨組みだけが辛うじて残されていた。
                    そして、黒く焼け焦げた木からは未だ灰色の煙が上がっている。
                    鎮火されてからまだそれほど時間は経っていないようだ。

                    男は自分の心臓が激しく鼓動するのを感じた。
                    認めたくないが、彼の直感が、彼女はここにいると言っている。
                    その時だった。
                    男の目に何かが入ってきた。
                    それが何なのか、彼は一目見て分かってしまった。

                    この世のものではないと言わんばかりに燦爛たる光を放つ欠片。
                    それは、光の鎧の破片だった。
                    波のように押し寄せる不吉な予感に、彼は身の凍るような激しい恐怖を感じた。
                    男は歯を食いしばって前に進んだ。
                    足が震えて思うように動けない。
                    一歩、一歩、散らばった鎧の破片を辿って彼はゆっくりと足を運んだ。
                    そして、足が止まった場所で男は崩れ落ちた。

                    真っ黒に燃えてしまった小さな広場、空から流星が落ちたように散々と散らばった光の欠片の間に、赤く染まった光の騎士が横たわっていた。
                    どれほどの敵と激戦したのだろう、彼女の周りは剣の跡や折れた槍で埋め尽くされている。
                    彼女の身を覆った光の鎧は極一部だけが残って辛うじて形を成していた。割れた兜から、顔が半分ほど見えた。
                    男は這うようにして彼女に近づき、丁寧に兜を脱がせた。

                    血に濡れた髪が、目を開いたままの顔に力なく落ちる。

                    彼は彼女の脈をとった。
                    息はずいぶん前に止まっている。
                    男は、今まで自分を支えていた何かが完全に崩壊していくのを感じた。

                    その時、裏手から黒い物体が姿を現わした。
                    奴らか。
                    男は頭を上げた。
                    怒りに燃える瞳に、狂気の眼光が映っている。

                    彼は力いっぱい弓を握った。
                    そして、背後から近づく物体を足で強く蹴り倒した。
                    彼女を守護するように、男は彼女を背にして奴らに向かって素早く弓を射る。
                    絶え間なく飛び交う彼の矢が、風を鋭く切った。
                    一、二、三。
                    予測不能な方向に飛び交う矢が物体を貫通する度、彼らは秋風落葉のように倒れていった。

                    男の吐き出す気合の声は、まるで崖から突き落とされた者が泣き叫ぶ声のように、陰鬱で悽絶だった。
                    男は残った最後の一体に向けて高く飛び上がり、奴の後頭部に向かって思いっきり弓を引いた。
                    ピシッ!鈍音とともに黒い物体はそのまま地面にささった。

                    苦しそうに息を吐く男。
                    残ったのは、生臭い血の匂いと寂寞だけだった。

                     

                     

                    男は少しずつ落ち着きを取り戻した。
                    それとともに、計り知れないほどの深い絶望が、凄まじい勢いで彼の心を侵食していく。

                    彼は再び彼女に近づき、虚しそうに空を向いている両目にそっと手をかざし、優しく閉じてあげた。
                    なぜ彼女はこのような死に方をしなければならなかったのか。
                    信念のために献身した者への見返りが、魔族の手によって悲惨な最期を迎えるというものなのだろうか。
                    頭の中には解けない疑問が激しく沸き返っていた。

                    男はゆっくりと彼女の体を持ち上げた。
                    その時、彼の手に何かが引っかかった。
                    彼女の背中に、折れた一本の矢が深く刺し込まれていた。
                    矢はかなり遠い場所から強い力で射たれているよう見えた。
                    これが彼女を死に至らせた決定的な致命傷となったのだろう。

                    ……「矢」?
                    今倒した魔族らは、弓のような道具を使う種族ではない。
                    なのに、どうして彼女の体に矢が刺し込まれているのだろう。
                    男は彼女の背中に刺さった矢を引き抜いた後、じっくり調べ始めた。
                    鋭く特徴のある形の矢先、美しく整えられた矢羽根。
                    この矢は、決して魔族や一介の狩人などが使うような粗悪なものではない。
                    職人によって丁寧に仕上げられた、高価なものに違いない。
                    男は彼女との最後の会話を思い浮かべた。 

                    『今回行ってきたら、貴方にも私が追っていたものについて少しは説明できると思うわ。』

                    直感的に彼は、この矢が今まで彼女が追ってきたものと深く関係していると悟った。
                    すべての状況が、この矢は確実に彼女を殺すために射られたものだと言っている。
                    その者はきっと、すべての証拠を隠滅するため、ここに火をつけたのだろう。

                    男は硬い表情で矢を持ち、彼女を両手で抱き上げた。
                    もうここに用はない。
                    少しでも早く、彼女を安らかに眠れる場所へ連れていこう。
                    立ち込める煙と血の匂いを背に、男は二人だけの場所へと足を運んだ。

                    夜明けが訪れようとしていた。
                    男は自分の手で、二人の思い出が込められた森の中に彼女を眠らせた。
                    ここに再び帰ってこられたことを、きっと彼女も喜んでいるだろう。
                    土に覆われた素朴な墓の上に、彼は小さな花を供えた。
                    墓を眺める彼の顔は、堪えきれない悲痛な想いで歪んでいた。
                    涙はなかった。
                    ただ、彼の口からは、息とともに小さな呻き声が漏れていた。

                    『どうしてそんな顔するの、ね。明日また会えるんだから。』

                    遠い空の向こうから、彼女の優しい声が聞こえてくるようだった。

                    こうやって彼の短い春は終わりを告げた。
                    そして再び、以前よりも遥かに長い酷寒の冬が訪れた。
                    彼女が追っていたもの、彼女を殺した者の後を追える唯一の手がかり。
                    彼は折れた矢を取り出し、強く握り締めた。
                    この物の出処を追っていけば、いつか必ず真実に辿り着けるはず。
                    今から、彼女を殺した者を捜しに出る。
                    何ヶ月、何年かかろうが構わない。
                    必ず捜し出して彼女の死の理由を聞き、その罪を償ってもらう。

                    きっと彼女は、復讐を喜んではくれないだろう。
                    信念のために命を捧げた彼女は、それが本望であったのかもしれない。

                    でも…、

                    「…あなたは言った。これからは自分の人生を生きるのだと。それは…あなたのための復讐だ。これが俺自身のために生きる人生の第一歩だ。どうか見守ってくれ。」

                    男は後ろを向いた。

                    「…じゃあ。いつまた会えるか分からないが、必ず戻ってくるよ。」

                    伝えきれなかった言葉をぐっと飲み込み、彼はありふれた別れの挨拶を残して森を去った。
                    墓に供えられた小さな花だけが、彼を見送るように風に乗ってひらひらとなびいていた。

                    とある街の酒場。

                    男は酒場の端に座り、カルブラム傭兵団所属のゲレンというほら吹き者の話を聞いていた。
                    傭兵団の第二人者は自分だとか、自分が前回の任務で大活躍して功績を立てたといった、虚勢混じりの話を、彼は辛抱強く聞き続けた。
                    「俺様の活躍が凄すぎたせいか、最近は『ロチェスト王国騎士団』から直接協力要請が来るほどなんだぜ。」
                    遂に、彼が待っていた言葉が男の口から飛び出した。
                    ロチェスト。男は手に持っていた折れた矢を胸元に入れて席を立った。
                    そして男に近づき、こう言った。

                    「俺の名前は『カイ』、
                    カルブラム傭兵団へ入団を希望する。案内を頼む。」

                     

                    マビノギ英雄伝公式サイト

                    「カイ キャラクターストーリー」より

                     

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